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父のがん発覚〜葬式の経験談。「後悔したくない」と関東から地元に移住して、親に向き合った3年間。

こんにちは、マルゴト株式会社コンです。成長企業向けの採用代行サービスを運営していて、バリバリと事業を拡大しています。3年前は社員53名だったところから、現在(2024年8月)は183名へ事業を推進してきました。

ただ、同時にプライベートでは3年前に父親が癌のステージ4だとわかってから「親のケア」に関しても本気で向き合ってきた期間でした。そして、先日2024年7月に父が69歳で息を引き取りました。

そのがん発覚から葬式までの話を、できるだけ記憶が新しいうちに書き残してみようと思います。いずれは仕事と介護を両立させたい、と考えているどなたかの参考になれば幸いです。

親に対して一切の後悔なし!やりきった!

親が末期がんだとわかってから、一人っ子の僕のゴール設定としては「父に対して後悔がないようにしたい」ということと「自慢の息子だと誇りに思ってもらいたい」という2つでした。

3年前からこの2つのゴールを決めて動いてきたこともあり、父が永眠した時や現在も、まったくと言っていいほど、後悔がなく「完全にやりきった!」と自信を持って言える状況にいます。

もちろん父と会えなくなった寂しさはあります。ただ、一つのプロジェクトをやりきった達成感すら感じているほど、しっかりと向き合うことができたと思いました。きっとこれを読んでいる方々でも、遅かれ早かれ親の病気や介護に向き合うことになる方もいると思います。

まず、父について

青森の鉄道会社で働く祖父と、服の裁縫をする祖母の元に生まれた長男が父です。カメラが好きだったことから放射線技師になり、青森の病院で看護師をしていた母と出会い、職場結婚。

結婚して1年が経つ頃、20代で「ガラスのアートやステンドグラスが流行るはず」という謎のモチベーションで突然の起業。お金がなくなり、実家暮らしをしながらの新婚生活。そこで僕が生まれる。事業は2年間がんばるも、青森にガラスアートのニーズがなく失敗。

実家ぐらしなので嫁姑問題も頻発して、青森の実家住まいが気まずくなり、母が大学時代に住んでいた札幌に、0歳5ヶ月の僕を連れて引っ越し。

そこから一軒家を買おうとなり、当時はど田舎だった札幌の隣の北広島市に家を建てる。お金に困らない生活と、子育てを安心して行いたい、という動機から放射線技師として復帰。そこから起業したいという気持ちを抑えながら約25年間ほど病院に勤務

無事に僕を私立の中高一貫校に入れ、国立の北海道大学にいれることができた。ただし、病院勤めでストレスを抱えていたようで、タバコ・酒・競馬・パチンコ・深夜までテレビを見る、などかなり不健康な日々を送っていた。(おそらくこれががんの原因でした)

僕をフィンランド留学に送り出す日の父

そして、僕が大学に入り、家庭教師の仲介サービスで起業。まさかの息子が父親自身が一度諦めた「起業」という道を進むことになったことで驚いていた。息子の僕が起業したことで刺激を受けたのか、また自らも50代で起業する道を探り始めて、高齢者向けのデイサービス施設で起業というチャレンジを開始。

一軒家を改装した施設を運営する形で、すごく親身な姿勢で愛されるデイサービスになっていた。そこを10年間経営していた矢先、2021年6月に血尿が出て検査をしたところ、膀胱にがんが発覚。すでに複数箇所に転移しておりステージ4。その時点で「余命10年は無いです。おそらく5年以内だと思います。」と医師から宣告された。

癌が発覚するまでの父の生涯をまとめると、こんな父だった。

余命は数年。これからどうする?

北海道に住む父にがんがわかった時、関東に住んでいた僕に電話があった。「血尿が出て検査に行ったら癌だった。手術や治療もしてもらうけど、おそらく余命は数年。10年は生きられないって。これからどうするか、お盆に帰ってきた時にでもゆっくり相談させて。」という感じの弱気な内容だった。

このときの父は体が痛いとか不自由もなく、見た目も声も元気。ただ精神的にはショックだったようで落ち込んでいた。僕自身もあまり信じられずに「手術したら治るんじゃない?良い病院とか探して、抗がん剤とかの薬の治療とかもあるみたいだし大丈夫だよ!」っていう前向きな話で元気づけた。

ただ、癌について調べると、早期発見なら完治する可能性も高いが、ステージ4の場合は、完治というよりは付き合っていくしかなさそうだと判断した。余命は長くて5年だなと覚悟した。

自分の人生の過ごし方として、この5年間を過ごそうか?と真剣に考えた。ゴールは「自分自身が後悔しないように父親に向き合うこと」と設定した。妻にもこの想いを伝えると共感してくれて、非常にありがたかった。

「理想をともに叶える。」

これはマルゴト社のパーパスでもあり、僕の大事にしている信条でもある。理想はどちらか1つではなく、どちらも叶える。orではなくandの思考だ。
まさに、これを体現するタイミングだと思った。

・仕事ではマルゴト社を思いっきり成長させること
・親のことで後悔しないこと
これらを両立することに決めた。
(もちろん子育ても含めて、家族を大事にする両立も継続!ちなみに2015年にフルリモートワークで起業したのは、子育てと仕事を両立させるため)

大事なのは、仕事なの?介護なの?子育てなの?家庭なの?
という話ではなく、人生はやりたいことを全取りでいくということ。

じゃあ、どうすればそれが実現できるのか?を考え始めた。
まずは住むところが問題だ。

親と遠くに住んで長期休みに会いに行くか、近くに住んで長期休みは旅行に行くか、で考えると、普段は近くにいて僕もたまに旅行できるようがお互いに良さそうだった。親も何ヶ月か一回会いに来てくれるよりも、普段会える方が嬉しいと言われた。

本当に良かったことは、僕自身が住む場所にとらわれないフルリモートワークの働き方をマルゴト社で作っておけたことだ。まったく仕事上での影響はなく関東から札幌に移住をすることができた。当社の社員のみんなもこういうタイミングがあると思うので、ライフイベントを乗り越えられる働き方が提供できている、と誇らしくなった。

1点だけ心配ごとと言えば、東京の経営者とのつながりが薄くなること。なぜなら僕らの採用代行サービスで守りたい顧客は主に「東京のベンチャー企業」だからだ。ここは僕がたまにイベントに参加しに出張したり、オンラインでの情報発信を増やすことで解消しようと思った。(これが結果的に書籍を出版する意思決定にも繋がった)

東京の経営者の知り合いからは「BtoBのビジネスなら、明らかに東京が本流だよ。この規模で企業の成長を諦めて、地元で隠居するなら良いと思うけど、東京からは離れない方が良いと思う。売上は下がると思うけど本当に大丈夫?」みたいな心配の意見も言われた。

ここでさらに覚悟が決まった。「いや、札幌に住みながら、絶対に企業を成長させよう」と決めた。(結果的に札幌に移住してから2年間で社員数が70名から180名になったので、東京にいなくても成長させられることは証明ができたはず!)

ちなみに父は2021年の秋に膀胱がんの手術をして、抗がん剤もやり始めていたが治らなかった。一方で入院のときにiPadを買って、Netflixの使い方を教えてプレゼントしたらすごく喜んでくれた。入院すると課金型のテレビしかなく暇すぎるらしいなので、入院する時にアプリを入れたiPadをあげるのはおすすめ

それよりも何が大変そうだったかというと、医者からの心無い発言だ。「もう無理だって言ってるでしょ」とか「余命はどうやっても10年はないよ、抗がん剤も効いていないね、もう厳しいね」のように一緒に病気と戦ってくれる姿勢がない感じ。父がいつも医師の不満を言っていた時期が続く。

父親が医師に対しての不満や不安を解消できたのが、がん相談支援センターという電話窓口だった。全国の病院内にある無料の窓口で、医療に詳しいカウンセラーのような方が電話対応してくれるらしく、何度か電話で相談しては次にやるべきことがわかってスッキリした様子だった。ここには父だけではなく、母も父への関わり方についての相談で電話していた。

病院には頼れない、と言い張って父なりに色んなことを調べていて、体を温めるとがん細胞が倒せるのではないか、水素水が良い、このサプリが良い、などいろんなものを調べては試していた。札幌から10時間も運転して宮城の温泉にも2回も行っていた。つまり、体は元気で闘病していたのが2021年〜2022年ごろ。

「行きたい場所はどこかないの?」と聞いて、そこに旅行してきなよ〜、と背中を押していた。結果的にいつか行きたいと言っていた、白川郷、白浜、上高地などに母と行ってた。これも本当に行けるうちに行っておいてくれて良かった。

関東から札幌に移住。親と同じマンションに。

ここで話は僕に戻る。僕の子供は翌年3月末で幼稚園を卒業するところ。転校させるよりも、小学校の入学に合わせて引っ越そうと決めた。奥さんは東京好きだけど、たまに旅行に連れて行こう。色々と合わせてもらってしまったので、奥さん自身がやりたいことも全力で応援すると決めた。

2021年のお盆に5日間ほど帰省して、すぐに部屋探しを始めた。賃貸で探したが子ども部屋が作れるところが見つからない。僕が地元で育った時に辛かったのが「雪かき」だったので、引越し先はマンション限定。

賃貸で見つからないので、近場で分譲マンションを探したら、一件だけ見に行って、その場で購入を決定。75歳まで支払う40年ローンを組んだ。

(これは蛇足だが、なぜ40年ローンという長い期間の支払いにしたか?と言うと、ローン支払い中にもし自分が癌だと診断されたら、住宅ローンがゼロになる団信という制度が基本的についているので、僕も仮に父と同じ66歳で癌になったら逆にお得なのでは、と思ったからである)

別のフロアでの部屋も空いていたので、親も一軒家を売って同じマンションに一緒に住めないかと提案。一軒屋だと雪かきができないのと、いつか母親一人になると考えるとメンテナンスが大変なので、一軒家を売ることと同じマンションを購入することを決めてくれた。

僕が1歳から22歳まで住んでいた一軒家を売却したのだが、北広島市がボールパークの完成と新庄監督就任のタイミングにより、土地が値上がりしていて奇跡的に良い金額で売ることができた。これは完全に奇跡。

親のマンション購入に僕も多少お金の負担しようかと思ったが、一軒家の売却+看護師をやってきた母親の貯金によりなんとかなった。親世代の年齢ではローンが組めないそうなので、一軒家から買い替えようと思っている親世代の方はお金を貯めておく必要があると思った。

2021年のお盆休みに部屋も決めたこともあり、諸々の手続きで2021年の年末も帰省。父はめちゃくちゃ元気で驚いた。親はデイサービスの仕事をやめて会社をたたむことにしていた。

そして、2022年4月に子供が幼稚園を卒業して、北海道の札幌市に引っ越した。自分と同じマンションの別フロアに親が住んでいるという、それぞれのプライベート生活空間がある中での、二世帯住宅的な生活は最高の距離感だったと思う。

これはあとから気づいたことだが、小学生の子供×定年後の親の組み合わせは最高の時期だと思う。さすがに孫でも中学生や高校生になったら、じいちゃんばあちゃんとは遊ばないと思うが、小学生なら普通に一緒に遊んでくれるからお互いにとって良い思い出になる時期。

父は闘病でゆっくりすればよいものを、なぜか常にアクティブだった。自分のがんを治すために調べていって、これが健康にいい、これが健康に悪いがわかってきたそうで、健康サロンなるものを始めるために準備していた。

いきなりワンルームを借りて健康食品や施術マシンを買ってスタートしだした。がんで悩む人たちを救うんだ、と父が言い張っている姿を見て(いや、自分が闘病中じゃん!)と内心思いつつも、いつまでも挑戦をやめない姿勢は僕も刺激を受けた

病院の治療としては免疫療法を始まる。ただ、あまり効いてはいなかった。進行ペースを遅らせるくらいしか効果はないのだと思う。そこからは痛い箇所も増えてきて、麻薬の処方が始まった。

また、僕自身も「自慢の息子だと思ってもらうこと」をゴールに置いていたので、「仕事を通じて自慢の息子だと思ってもらう」と考えて、父にもわかりやすい成果を作ろうと動いた。会社としての広報PRを積極的にしていこうというタイミングだったので、直近2年で本の出版、出版講演会、公開ラジオ、新聞掲載、雑誌の掲載ができた。

父が病院の看護師さんに「その今月号の雑誌あるでしょ、そこに見開きで社長さんのインタビュー載ってるでしょ、これ息子。」と雑誌を見せて自慢していたそう(笑) 親のために出版や広報をやっていたわけではないが、会社のためにもなり、親のためにもなる一石二鳥だったので広報をがんばって良かったと思った。

グアム旅行を共通ゴールに設定

父から「30年以上前に新婚旅行で行ったグアムに、孫を連れていきたいな」という希望があった。北海道が真冬のうちに真夏のグアムに行けると子供も楽しいよね、ということで子供の冬休みに行こうということになった。2023年1月に決めて、1年後の2024年1月にグアムへの1週間滞在の予約をした。

正直、体調は心配だったものの、すぐに行かずにあえて1年先に設定した。旅行までに「グアムで何する?グアムまでは元気でいてよ!」という感じで、共通の楽しみのゴールとして、話題を引っ張りたいなという目的だった。

重い病気になると未来の楽しみがなくなると聞いていたので、結果的には「あと〇ヶ月でグアムだねー」と楽しみをキープできて良かった。移動中の空港内は車椅子を借りて移動しながらも、なんとかグアムにも家族全員で行けた時は感動した。現地では「病気治ったの?w」というくらい元気で、普通に海で孫と泳いでいたのは本当に驚いた(笑)

グアムで孫とツーショット

2024年1月の旅行から帰ってきてからは、じょじょに足が腫れたり悪化してきていた。歩けなくなり入院。腎臓が悪くなり、手術をしてバイパスをつないだ。おしっこを袋に出す形になって不便そうだった。この時から旅行も温泉も行きにくくなった。

2024年2〜4月からは食欲がどんどん低下。味がしないらしい。美味しい食べ物にも連れて行けず、食べ物の差し入れもいらない状況になってきていた。何をあげようか?と考えて、家に飾るお花を持っていっていた。大きいヒマワリを買っていったら「部屋が明るくなる」とすごく喜んでいた。

2024年5月には痩せていき、栄養が取れなさすぎて入院し、点滴を打ってもらった。その際に先生からは「あと1年はないです。場合によっては1ヶ月くらいのケースもある状況です。」と聞かされた。この時は父親も母親も、いよいよなのかと泣いていた。

病状は急に進む。ここから1ヶ月で体が常に痛いのと、寝たきりで自分で姿勢の移動もできなくなった。母親にいつも「もっと足を上げてくれ、そうじゃない、腰をひっぱってくれ」などとわがまま放題。あれを食べたい、これを食べたいと言われて作っても結局食べられない、などがあり母親としても自宅看護の大変さでストレスもかかっていたと思う。

僕ができることとして毎日、親に顔を出すことを続けていた。少し意識が定かではないのか、話が噛み合わない瞬間も出てきていた。最後の2週間くらいは話せなくなった。目は少し開いているけど呼吸だけをしている状態。

看護師さんから「目も口も動かなくても、最後は耳と手は残るので、話しかけたり手を握ったりしてあげてくださいね」と言われた。そこで僕が伝えたいことをまとめた手紙を書いた。学生時代に感謝していること、一緒に行った旅行の思い出、自分と母のことは安心してほしい、など。耳元で読んだら聞こえていたのか、半開きの父の目に涙が出ていた

最後の1ヶ月間は自宅療養で、訪問看護を選択できた。ほぼ毎日、訪問看護がきてくれて点滴をしてくれる。週に1回は医師が来てくれて、診察してくれる。など最高に手厚い制度だった。こんなに素晴らしい介護サービスのために税金があるなら、僕もさらに仕事をがんばってもっと税金を収めようと思った。

亡くなる当日は平日だったので自宅で仕事をしていたのだけど、息を引き取る1時間前はお昼休みで顔を出していて、そばにいることができた。最後の最後まで向き合って看取ることができた。

お葬式の準備もバタバタと進めた。まるで結婚式準備の時に決めたような諸々の項目を、1日で決めきるスピード感で葬式準備は進む。通夜には前の職場の方々も来てくれて感謝の言葉を聞くことができた。特に父が部下から慕われていたと感じた。家族+親戚+知り合い数人の小さいお葬式だったが、お坊さんへの御礼も含めて費用は110万円ほどかかった。

その翌日の、火葬場で火葬に入る時、火葬から出てきて骨と灰になったとき、が本当にいなくなったんだと実感として湧く場面だった。僕の小3の息子も火葬場では号泣していた。手続き関連は諸々とあるものの、火葬を終えると葬式関係はすべて終わったと、ほっとするような寂しくなるような瞬間だった。

ちなみに父は前しか向かないタイプだったので、遺書も手紙も無し・銀行口座のパスワードのメモも無し・どの生命保険に入っているかも伝えず、という状況だった。母は手続き関連は大変そうだったが、僕から見ると、父は最後まで本当にがんを治す気だったんだなと感じた。

相続・銀行口座・保険については死期が近くなると、どんどん聞けなくなっていく。振り返ると、病気と発覚したが元気な3年前に準備してもらうのが正解だった。)

火葬がすべて終わり、母と僕の2人で話している中で「本当にやりきったね」と話した。母も病院付き添い・食事と家事・自宅療養と相当がんばっていた。僕もやれることはやったなという気持ちで、後悔はない、と言えるほど向き合えたことは自分の自信にもなったと思う。

さいごに。ビジネスケアラーのリアル

いまは49日もお墓への納骨もすべてが終わり、母も僕もふっと力が抜けたところです。あとは母が一人で生きていくためのケアも続きますが、ご飯や買い物などに巻き込んで、自立して楽しく過ごせるようにサポートしていきたいと思っています。

ここまでが僕のがんと闘病してきた父親と向き合った3年間の経験談でした。自分自身が後悔ないようにしたい、自慢の息子だと思ってもらいたい、という2つのゴールは個人的には達成できたように思います。

その過程で人生の有限さも強く感じられたし、仕事でのわかりやすい成果を見せてあげたいという意味で、普段とは違う社外への仕事のがんばり方もできました。

この経験を経て、仕事をしながら介護をする「ビジネスケアラー」の方々への尊敬は増すばかりです。ビジネスケアラーの本も読みました。子供が減り高齢者が増える時代には、子供が親を介護しながら仕事をするケースもどんどん増えていくと思います。

ケアラーの悪いサイクルは、親の介護に専念するために子が仕事を辞めて、家族内の収入がなくなり、色々なサービスをお金を払って頼ることができなくなり、義務感で介護だけをする生活で辛くなって親を恨むようになることだ、と書いてありました。

仕事と介護を両立することは大変ですが、どうにか両立ができる道を探せば人生としても後悔がない期間になるのではないかと思います。一人ひとりの状況次第、会社の状況次第ではありますが、仕事をしながら介護もできる職場が増えると良いなと思いました。

僕が自らできることとしても全員フルリモートの職場を作り広げることで、介護や子育てをしながらバリバリと仕事をして両立できる人を増やせるよう、自分の経営するマルゴト社を大きくしていきたい気持ちも増しました。

会社の成長もしっかりと追いかけながらの3年間の親へのケア生活でしたが、一旦の区切りを終えました。きっとこれを読んでくださった皆様にも当てはまる時期が来るかもしれません。

記憶に新しいいましか書き残せないことだと思ったので、乱文ながら書き残してみました。何かの参考になれば嬉しいです。

今回の期間を通じて、改めて人生に終わりがあるんだというリアルも感じることができて、僕自身はさらに気合いが入った感じです。自分自身の人生においても後悔がないようにしたいし、自分の息子からも尊敬されるような人生を歩めるよう、さらに仕事にエネルギーを使っていきます!

引き続き、宜しくお願いいたします!

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