No.30|百日行願30日目(2024年9月1日)
百日行願、三十日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
最近良く思うことは、
『お腹が空いていれば、大抵のものは美味しいし、残さず食べ尽くす』
ということ。
お菓子好きの三女。ご飯前にお菓子を食べてはご飯を残したり、少し「嫌だなぁ」と思うご飯を残しては、その後に大好きなお菓子やジュースを欲しがったり、その姿を見ていて強く感じたことです。
ほかに食べるものがあるから目の前のものを残す。
ほかに食べられるものがあるから目の前のものではない他を選ぶ。
それらはつまり、選べるから
ということじゃないかと。
ここで、私が毎日言っている『命』に話を移しますが……
命というものが「有る」と思っていると、どうしたってほかを選んでしまうのでは、ということ。
飛躍しすぎているでしょうか。
もう少し、くわしく説明しますね。
命というものが既に「有って」、その他に……、選べるものがほかにも「有る」と。楽しみにしていることや、不安な予定とかを選んでは浮かれたり悩んだりする。
すると、命という本来有ることが難しかったものが、薄まると言うか、御礼もそこそこに次を選択してしまう自分になってしまうのかと。まさに三女のように。
ほかに選べるものがない、
命があってこそ、仕事も、食事も、余暇も選ぶことができるはずなのに……
そこまで命のことを根源的なものとして考えることができたなら。
もうすこし、御礼が増えていくのではと思います。
命と同ジャンルと言えば、医療でしょうか。
薬や治療や手術も含めて。
ですが、私はまったく同じものとして認識していません。
薬も人が作ったものだから。
治療や手術や、ましてや診察も人間がすることです。
私の命が有り、
その人たち(医者)の命が有る。
お互いにその土台に立った上で、
私が治療を受ける側
医者は治療を施す側になるだけ。
それはただの役割でしょう。
でも、命と医療を天秤にかけてしまうと、
医者が神様に見えてしまう人も少なくないのではと思います。
「おいしゃさま~」って。
もちろん、役割を全うしてくれたという点においては感謝の気持ちしかありませんが、そもそも、治療を受けるその日の命を朝方頂いたと言う点では、到底比較にはならない。
そういう意味では、まったく選んでいません。
食事だって
命だって
同じテーブルに色々乗せてしまうと好きなものを好きなように選ぶのが人間ですから、そんなことを三女の姿を見ていて思うわけです。
その選択は違うのでは。
本来選べないはずだと。
命を頂いて(それを喜んで)
目の前の食事を頂いて(それを心から喜んで)
そういう生き方にならないと、失ったときに(健康も、食事も)、
自分がどのような結末になるのかは目に見えていることだよ。
三女には、何があっても命を喜び、食べられるものを有り難く頂ける人間に育ってもらいたい。
もちろん、この先の私も、
それから家族も、
関わりある人たちへも、まったく同じ気持ちです。
いつだってシンプルに考えたら良いのではと思う次第です。
命を喜べたらどこまでも生きていける。
食べるものがなくなったら食べなければ良い(当面は)
寝る場所がなくなったら寝なければ良い(もちろん当面は……ずっとなら死んでしまうから)
でも、それで死ぬのならそこまでなのかなと、書いていて思いました。
そういうことを思うと、今、雨風をしのげて、ぬくぬくと(カチャカチャと)誰のためになるのかわからない文章を書いていることだって「あぁ、有り難いなぁ」と思えてきますよ。不思議とね。
やはり、オススメですね。この生き方。
ご信心(命の御礼)あっての生き方です。
追伸:三女の「お菓子>ご飯」から書き始めて、途中スケールの大きな話になってしまいましたが、概ね私が言いたかったことが言えた気がします。
目の前のこと(今日頂いた命がトップ・オブ・ザ・トップ)を喜べないやつは生きづらくなる。
やっぱりこれですかね~……。いかがでしょうか^^
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