No.79|百日行願79日目(2024年10月20日)

こんにちは。

百日行願、七十九日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

命の御礼が出来るとどうなるか。

まずは、

心が奪われなくなる

心は1つ。

人間の心は色々なことを想えるように誤解されがちですが、
私はただ1つのことしか想えない、そう思っているんです。

どういうことか。

心底不安な気持ちで人は喜べない

反対に、心から喜んでいる状態で明日の不安は浮かばないでしょう。

極端に思うかもしれません、
人間とは、あなたが思っているよりずっとシンプルだと思っています。

そして、色々なことが頭をよぎるのは
「心底」だったり「心から」だったり
それが出来ていないからだと思うのです。

楽観主義、ポジティブシンキング、世に蔓延るスキルめいたお話ではなくて、

そういう人間(『心底』命の御礼が出来る人間)にお育ていただくということが肝要かと思うのです。

必要なときに使うスキルじゃなく、そういう人間になっちゃうということ。お育て頂く対象は、もちろん神様。

そうしたら生きやすくなるのは火を見るより明らかでしょう。

でもね、一足飛びにはまいりません。稽古事、習い事とおんなじです。少しずつお稽古していく上で、身体が、心がそのように変わっていきます。鍛えられていく。

私はよく信心を「筋トレ」でイメージしています。

筋肉がつくのも衰えるのもトレーニング(お稽古)次第、ですよね。
始める前から「やらなくなると衰えるよ~」そのようなイメージを持たれておいた方が賢明です。やれば身につくし、そういう人間になるのですが、やらなければ、信心しなくなれば衰えていく、そんなイメージですね。

広前(ひろまえ:お教会にある祈る場所)を離れるは信心の抜け始め

教祖様のみ教え

この教えは何も教会に氏子を留めておくためのものではなくて、お祈りの場所を離れちゃうと信心抜けるよ~、信心筋が衰えるよ~ということ。

教会離れた人が決まって言う言葉が「家で信心しています、祈ってますからご心配なく」というもの。

これが一番厄介。家ではどうしても自分都合になり、出来るときにしようになり、いずれやらなくなるのがオチですから。

家で信心出来るなら広前は要りません。出来ない(続かない)から広前があるのです。と、思いつつ私は広前に座っています。

兎にも角にも命の御礼。これで埋め尽くす。お花畑と思われてもそれで良い。有り難いな、あゝ有り難いなと、ニコニコニコニコ暮らしていたら、周りの人も良くなりますよ!

死にたいと思っている人の中には「もう少し生きてみようかなぁ」と思う人も出てくるかもしれません。それが人助けになります。

あとは、聴いてもらってきたように(私は聴いてもらってきたから今ニコニコニコニコできております)、聴いてあげること。そして祈ること。それぐらいしか出来ませんが、それは出来るでしょう。

今日も命を頂きました。
あなたは今、何を想っていますか?
御礼ですか?
それとも、悩み事ですか……?

追伸:ほんとうにシンプル。あれやこれやと難しく考えるから心は途方もないところへと持っていかれてしまうのです。命の御礼。

これは生きている人にしかできません。私はバカの1つ覚えで御礼の人生を全うしたいと思っています。心で想えるのも1つですから、バカの1つ覚えでの命の御礼はちょうどいいのかもしれませんね^^

今日も命を頂きました~(^人^)有り難い限りです~(^人^)

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