No.52|百日行願52日目(2024年9月23日)

おはようございます。

百日行願、五十二日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

昨日の霊祭での出来事。

祭典後に私の元へ来たある氏子から「父が喜んでいました」との言葉。
すでに亡くなられている父親です。

真意はこうです。

・今まで父を祀る(まつる)なんてしてこなかった
・どうしたらいいのか分からなかったから
・私に進められた通りに祀ってみた
・父に会いに来るように教会へお参りするようになった
・そうしたら、父が喜んでいるのがわかった

嬉しかったです。ありがたかったです。
この先も氏子と一緒に信心の歩みを進めていきたいと思いました。

いつも申していることですが、
子どもが元気に生きている(過ごしている)』ことこそが、
あの世にいる親からしたら何よりも嬉しいことなんです。そう思います。

なので、入口は『親を祀る』といった仰々しい手続き(ただ、合祀祭を挟むだけ=手続き=究極、無くても良いと私は思っています)にはなりますが、

その後はこの教会に親が祀られているという感覚になるのだから、あとは親に会いに行くような感覚でお参りすればいいだけ。

昨日のお祭りだって「秋季霊祭(しゅうきれいさい)」という仰々しい祭典名を付けてはおりますが、「お父さん、今日も元気で生きているよ!」と伝えに行くためだけの、ただの『機会』です。本気でそう思っています。

神様から見れば、子どもの、それこそ幼児園児が行う「おままごと」と一緒なのですから。

そして、子どもが元気にお参り(信心)している姿を観て親が喜ぶ。あたり前のことですよね。それを実践していくのが大切ってこと。

そのことを、昨日の氏子が直に感じてくれたのだと。
その気持ちがすべて「父が喜んでいました」の一言に集約されているように思いました。

追伸:「父が喜んでいると感じます」じゃなかった。
「父が喜んでいました」と、言い切った氏子。
本気だったのだろうと。
嬉しかった。
ありがとうございます。

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