No.44|百日行願44日目(2024年9月15日)

おはようございます。

百日行願、四十四日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

愛の反対は無関心

ということについて。今日はその辺りを少し。

最近はあまり訪ねてこなくなりましたが、もうすぐ小学生の三女から、

三女「パパは〇〇ちゃん(三女)のこと嫌いなんでしょ」
私「どうして?」
三女「すぐ怒るから」
私「それはね……」

という件(説明含む)を何度も何度も繰り返して、ようやっと落ち着いてきたのかなぁと。

なぜ怒るのか。なぜ声を荒げてまで娘へと訴えるのか。時間(命)を使ってまでなぜに伝えるのか。

それは、あなたが大事だから

どうでもよかったら言ってません、すでに諦めているかもしれない、でも諦めきれない、諦めたくない。

なぜなら、あなたが大事だから

このロジックを何度となく、三女の目を見つめては伝えてきました。

もちろん、私の言い方(怒られているように感じる言い方)に問題はあります。

だから、三女から「怒られた」と言われたときは決まって、反省しています。猛省しております。もっと別の言い方があったのでは……(きっとあります)。

でも、私の中で自信を持って推し進めていることは、

あなたが大事だから

この一点。

これは親子の契を交わさない限り、成り立たない(持続し得ない)熱意だよなぁといつも思います。

だって、大変ですからね。やらなくていいのなら、やりません。めんどくさいですし、強く言って「怒られた」と嫌な思いをされたくもないですし……。

でもでも、あなたが大事だから、この一点で私は生きているのでしょう。

それはつまり、「あなたが大事だから」という熱意こそが、私の存在価値を見出しているとも言えます。そのように思うようにもなりました。それはご信心を頂いてから特に。

まずもって、与えられました。「あなたが大事だから」を。師匠から。

あなたが大事だから」という強烈なメッセージを頂きました。ガツンと。

そして、そのあと派生して実の親からも受け取りました(30代まで私が上手く親からの愛情を受け取れなかった話は……今日は割愛します)。

そんな強烈なメッセージを受け取ったものですから、これを誰かに還元せねばいけないと、直感で思いました。それが私の日々の原動力になっています。

そして、恩返しは師匠でも親でもなく、私が触れる『誰か』であるというのも、直感で。それは私も同じだから。

私に助けられたという人が仮にいたとして、その人から丁重に御礼を言われることよりも、その時間を別の誰かの話を聴くために使ってもらった方がいい。

そうして私がしてきたことと同じように、悪戦苦闘してもらうことの方が、よっぽど私は嬉しいと思うから。これも直感です。

まさに、親から子へ、そして、またその子から子への循環。

この想いは、師匠も親もきっと同じであろうと確信しています。

という、動物的な親子関係で人間は成り立っているというそもそも論を、私はご信心を通じて理解させて頂きました。

なぜこのような話をしているかと言えば、そもそも論で生きる方が、人は生きやすいと思うからです。実際、私は生きるのが楽になりました。もはや説明不要とは思いますが^^

そういえば……

『私はなんのために生まれてきたのだろう?』

若かりし頃抱いたこの問い。信心いただいて後のこの20年間で私の頭をよぎったことはただの一度もありません。

つまり、生きるのが明確になった。

子どものためであり、
ここに参る氏子のためであり、
私に関わる人のためでもあり。

なんだっていいけれど、私の命を使う場所はどこにでも、いくらだってあるのだと心の奥底から思えているからこそ、「なんのために……」は浮かばず、生きるのがラクになったのだと。

明確です。クリアです。そして、この思いは死ぬまで変わらない(不変)だろうと今からでも想像できてしまう。

どんなに年老いても、ヨボヨボのおじいさんになったとしても。話は聴ける。どこででも。話を聴きたい。困っている人の。聴けないなら祈りたい。

そうして私の命を使ってもらいたい。きっと、どこまでいってもそう思えるはずだと、今からでも強く思えているのが……とってもラクなんですよね。

そのことを、今日はあなただけに伝えたかったのだろうと思います。

今日も命を頂きました。
神様、ありがとうございます。

追伸:もちろん、この先も、神様から尊い命を頂かないと、なんにも始まらないことではあるのですが。

と同時に、死んだあとのことなんていくら考えても仕方のないことだ、というのも付け加えつつ。

命ある限り、使ってもらえば良いだけです。ただ、それだけなんです。

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