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生き方の転換となった考え方:1

特に今年は、自分なりの「ちょうど良い生き方」を模索して、ようやく少しだけ形になったと思える期間だった。
身体に関してはいつになく健康で、風邪ひとつ寄せ付けなかった。
心に関しては、不調や生きづらさが時折ちらつくものの、それが自分のあるがままの姿なんだと、少しずつ認められるようになった。

今年の一番の成果は、明日を楽しみに眠れるようになったことだった。
いつも次の日の懸念や不安に押しつぶされていた日々を回顧すれば、やっとひとつの呪縛から逃れられたように思うのだ。
明日を楽しみに眠る態度を、何の障壁も無く易々とこなしている人が居ることは分かっているが、それでも自分にとっては、確かな輝く果実だった。

ひとつ重荷が降りて何となく節目が来ているように感じたので、生き方の転換となった考え方を、おおざっぱにまとめて共有したい。
参考までに、以前の考え方と、生き方を転換せざるを得ない直接のきっかけとなったについて、先に紹介する。

なおこの一連の記事を書いている間に、以前の考え方を書くだけでも字数が多くなってしまったので、今回の記事では以前の考え方と病の内容について書きたい。


● 以前の考え方

成長至上主義

成功にはあまり興味を惹かれないタチだったが、「自己改革」や「成長」という言葉には陶酔していた。
なぜなら、自己を絶えず改革あるいは変革し、成長を続けることは、豊かな実りある人生に繋がっていることを、信じて疑わなかったからだ。

価値観を高めるために著名人の発信を聴き、またリテラシーを養うためにWedgeやPRESIDENTを購読し、受け売りの知識を知人にひけらかしたりもした。
むろんこれらの習慣は、全てが悪いものではなく、続けている部分もある事は確かだ。

だがあくまでも”自分にとっての”成長とは何なのか?
自己改革の先にしか、実りある人生は存在しえないのか?
ニュースや自己啓発を視聴するのは、本当は誰かに褒めてもらいたいからなのではないか?


このような、自分に立ち返る質問を突き付けてくれる人や、あるいは良心は、どこにも居なかった。

ポジティブであれ

不安は悪者で、人生から排除すべきだと当然のように考えていた。
SNSで散見されるような"豊かな暮らし"を毎日、毎分、毎秒送るべきだと信じて疑わなかった。

少しでも不安が浮かべば、自分に足りない部分があると断定し、さっき述べた「価値観を高め、リテラシーを養う行動」に活発に着手した。
そうすることで、Instagramに漂う写真、ピンタレストに並ぶヨーロピアンな部屋、尊敬や羨望、そして「いいね!」…これらが手に入ると思ったからだ。

だが今となっては、雑誌に書かれていたことや、著名人が勧める行動については、何一つ覚えていない。
尊敬や羨望は、恐ろしくて手が出せない。
Instagramやピンタレストは、そのつづりを忘れるくらいに目にしていない。

暇は悪

予定を入れなければ気が済まない時期があったことも、すこしあったと白状しなければならない。
Googleカレンダーを巧みに駆使し、色々な予定が寿司詰めになった1ヶ月の表は、春の花畑のような色味を帯びていた。

やや短絡的に、暇は悪だと思っていた。

一度しかない人生なのに何もしないとは、どういうことか?という謎の呵責が、常に自分を取り巻いた。

間も無くして、この強迫的な生き方に、内なる心が牙を剥き始める。

高知県を流れる鏡川。
大切にしたかったのは、
こういった何気ない風景だった。

● 病に倒れ

スマホ恐怖症

仕事の最中には離人感(自分が自分ではないと思う感覚)や胃痛などが頻繁に現れ、ある日布団から起き上がれなくなった。
急遽欠勤して布団に寝転がっていたが、突如、得体のしれない恐ろしい不安が身体中を駆け巡った。
はっきりとは分からないが、何か自分が”おかしな状態”になっていることを悟り、最寄りの診療所へ駆け込んだ。

そこで分かったことは、自分はすでに抑鬱状態と身体表現性障害の中に居るということだった。

会社を辞めた後、緊張が解け、解放されたと思いきや、スマートフォンに対して突然恐怖心を抱くようになった。
後になって、自分はこの状態をスマホ恐怖症と名付けた。
連絡や職務で使用していたこともあったから、トラウマ的反応を起こしたのだろう。
通知音さえ不気味に感じたので、しばらく電源を落とし、棚の奥へしまい込んでいた。

人との出会いを拒む

職業はサービス業であったから、人と関わることにも苦難があった。
つまりは、職場での経験から連想される全ての事柄に対して、嫌悪感を覚えた。

人と喋っていると必ず、耳の異常な熱さと吐き気を催すようになった。
また、そういった交流を終えて帰宅してからも、毎度のようにパニック発作に襲われた。
パニック発作は生き方を変えた今も、依然として発生することがある。

病に囲まれながらいたずらに時間が過ぎる中でも、趣味の園芸は続けられた。
だが、起床後は植物の水やりを20分くらい行うのが精一杯で、以降の残された時間では何もしなかった。
5Lの重さしかないジョウロを、ベランダからわずか数メートル先の水道まで、何度も休憩しながら運んだ。

HSPと自閉症疑惑、そしてMBTI

自分はうつ病者の仲間入りを果たしたが、どうもそれだけでは無いような気がした。
元来生きづらさの種になっていた、感覚の鋭さと興味の有無の激しい落差は、うつ症状では説明がつかないからだ。

様々に考察を重ねた結果、自分は自閉症を内包したHSPなのではないか、と盛んに考えるようになった。
いくつかのWeb診断では、両者である可能性が極めて高いとの診断が下された。

MBTIは、それが注目された最近より前に何度かチェックはした事があり、INFJである結果は揺るがなかった。

またこういったパーソナリティを有していることは、育った環境や親戚の死などの、実際の経験によっても十分裏打ちされた。

ただこれらの診断は、ちょっと他人を驚かせたい時には便利だが、診断を受けたその自分には、振り返るとあまり効果を成さなかった。

これらの大げさなカテゴリーは、誰にでも3つくらいは当てはまるように作られているのではないだろうか。
今やHSPやうつ病、発達障害やMBTIのチェックリストが溢れており、チェック項目の内容も曖昧で、例えば「憂鬱」の捉え方も人それぞれだ。
したがって、受診サイドが意図的に診断内容を操作できる可能性さえある。
うつ病のスコアに近付きたければ、今の憂鬱さを誇示すれば良いのだから。

話が少し脱線するが、現在私はメンタルヘルスに関わる仕事を行なっており、そこで分かったことは、症状を訴える患者の傾向のひとつに、不安になるとすぐGoogle検索やチェックリストに頼る事があるということだ。
不安に対するチェックリストが、貴方は不安症であると告げる事で、かえって不安を更に煽る事にもなりかねないのだ。



この状態から徐々に、書籍や著名人の発言を借りながら、生き方を立て直していった。
続く話は次の記事にて。

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