周回遅れの春
4月1日。
いつも通り昼過ぎに起床し、Xを眺めると
【#新社会人】がトレンド入りしていた。
そのトレンドを見た瞬間に気が滅入り、Xを見るのを辞めてインスタグラムを開く。
友人たちのストーリーズを次々に開いたが、その多くがXと同じく、新社会人に関わるものだった。
スーツを身に纏い、社会人生活への意気込みを語る友人。これからの生活を憂う友人。葛藤している友人。
結局インスタグラムを見るのも嫌になって、スマホを放り投げて、天井を眺めた。
いつもと変わらない天井を、ぼーっと眺めた。
周りの同い年は学生生活を終え、社会という新しいステージに進み出したというのに、いつまでもこんな時間に天井を眺めている自分が情けなくなる。
専門学校に通った俺は同い年の大学生組よりひと足早く、2年前から社会人になった。
生ぬるい学生生活が終わってしまうことに困惑しながらも、また新しいステージで頑張っていこうと、きっとどうにかなるだろうと思っていた。さっきSNSで見た新社会人と同じように。
しかし、社会というステージで、俺は周りの人たちのように上手く踊ることが出来なかった。
この2年で3回仕事を辞め、アルバイトもろくに続かず、今は日雇いバイトをしながらどうにか生きている。実家に寄生し、友人や家族からお金を借り、奨学金や年金を滞納しながら、だらしなく生きている。
うだうだしているうちに1年が過ぎて、23卒が、社会に放浪され、まだ同い年は大学生だから大丈夫だ。と高を括っているうちにまた1年が過ぎ、ついに同い年も社会に放浪され、いよいよ1人になった。
体育の長距離走で校庭を延々と走る時、体力がない自分は体力のある同級生たちにどんどん追い越され、次第に周回遅れをし、もはや自分が何周遅れをとっているのかも分からない、そんなことが何度もあった。
あの頃と似たような気持ちを、この2年間に何度も味わった。
皆との間にどれほどの距離が開いているのか、
自分は何周遅れているのか、まだ間に合うのか、もう間に合わないか、自分で分からなくなってくる。
大人(自分ももう大人だが)は、「まだ若いから大丈夫」「全然余裕だよ」と異口同音に言う。
分かっている。まだ自分は取り返しがつく年齢だということは。たかが22歳で、何を諦めたような、人生を悟ったような顔をしているんだと、自分で自分に突っ込む時もある。
しかし、若さでどうにかなっているからこそ、
自分から若さがなくなった時に一体何が残るんだろうと、一層不安になるのだ。
「残りの人生で今日が1番若い日」というような言葉をよく聞くが、俺にとっては「過去の人生の中で1番老いている日」なのだ。
最近流行りの「社会不適合者な俺」を演じたい訳ではない。確かにそんな自分を陶酔しているような、アイデンティティを感じているような時期がなかったと言えば嘘になるが、もうそんな時期は通り過ぎた。
結局、そんな自分に酔えている内はまだマシなのだ。
本当に絶望の淵に立たされた時は、否が応でもその酔いから冷めさせられるのだから。
今はただひたすらに焦りと、不安と、憂鬱が胸の中に広がっている。
自分が平凡であること、社会以外の場所で生きていくような才能なんてまるでないことには気付いている。
世間体を気にしないような、自分の道を真っ直ぐ進んで行けるような神経の図太さもメンタルの強靭さも持ち合わせてはいない。
結局、いつかはまた社会に戻らないといけない。
いつかは普通を頑張らないといけない。
ささやかな幸せを大切にしながら、辛い暗い日常を過ごしていくしかない。
ぼーっと天井を眺めている。
凄いスピードで走り続けるランナーの姿が見える。
後ろからまた誰かに抜かされた。
同じ周数なのか、周回遅れで抜かされたのか、もう自分には分からない。
ここから大逆転を起こせるような切り札も体力も俺にはない。
先頭の景色は、きっともう見えない。
あいつらのようなスピードでは走れない。
でも、だからといってこのレースから抜け出すことはできないんだろう。
どれだけ遅くても、走り続けない限りゴールは見えないんだろう。
周りよりも速く走れないなら、誰かを追い抜かすこともできないなら、ゆっくりでも走りながら、ゆっくりだからこそ見える景色を堪能しながら、速い奴らが見過ごしてきた景色を一つ一つ楽しみながら、進んでいくより他は無い。
周回遅れの春には、いつもそんなことを考えている。
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