その時私はどう思った?

「おいしいね」と言い合いながら楽しく食べると、美味しく感じることに気づいてから、言葉の持つ力の大きさがやっとわかった。

「自分の発した言葉を自分は全部聞いている」。
これに気付いた時、愚痴を言うのがとても汚いことに感じた。これは自分を大事にする行為じゃないな、と。愚痴の内容が他人だろうと、「私」はそれを聞いている。

愚痴を聞かされることを「感情のゴミ箱にされる」と表現されているのを知った。
すぐ愚痴をこぼす私は私を無意識でゴミ箱扱いしていた。
愚痴をエンタメと思い込んでいた過去の私に愚痴を聞かされた元友人や夫、母に申し訳なくなった。
過去の私にも、申し訳なくなった。


体の健康のために「何を食べるか」を考えるように、心の健康のために「何を発するか」に意識を向けることにした。
「何を思うか」までコントロールするのはまだ私には難しいので、イライラや悪感情が湧いても受け止め、「『私のため』にそれを言葉にして発するかどうか」を立ち止まって考えるようにした。

昨日実家で父のぼやきを聞かされた時、私はスルーした。
(予想してたけど2言目にはペット2の愚痴か。病気なのだから仕方ないのにそんな嫌味たっぷりな言い方...2が可哀想だな。
父は2を俺が一番可愛がってると自分で言うが、こんなぼやきを毎回聞くとそうは見えなくなる。心の底では可愛くないのでは?...)

心の中ではこう思っていた。
今まではこれらをオブラートに包んで意見したり、全部我慢して「そうなんだ、父は毎日大変なんだね。がんばってるね。」と返事をしていた。
父は注意もアドバイスも聞かない人なので、言うだけムダだと判断して「もうぼやきは無視しよう」と決めていたが、「何を発するか」を意識してみると「何も言いたくない」が浮かんだ。
父のぼやきに影響されてイライラしそれを伝えるのも、場をまるくするために思ってる事と違う事を言うのも、「どっちも私に聞かせたくない」から。
結果としては同じ「スルーする」ではあるが、「何を言われても無視する!」と「私は何も言いたくないと思ったから言わない」は大きく異なると私は思った。


実家訪問後、クリーニングを取りに行った。

特殊クリーニングのため受取可能日が未定だった。10日も前に完了したとの連絡をもらっていたが、迷惑メールに入っていて気づくのが遅れてしまった。
私は受取時にそれを伝えようと思ってシミュレーションしていた。
「遅くなって本当にごめんなさい、カクカクシカジカで...」
文章にするのは難しいが「どうか許してください、私が悪かったです。(本当はメールが悪いんですが私は言い訳はしません)」という自分を謙らせて相手からの攻撃を避けたい思いが込められた言い方をしようとしていた。

こう書いてて自分でも笑ってしまうけど私は今までこういう考えで生きてきた。他人に迷惑をかけることは自分の命が取られても仕方ないくらい大変なこと、と無意識で思っていた。

昨日はシミュレーションの途中に「ちょっと待って、そこまで謙るべき事案か?遅くなったのは申し訳ないけど、店員さんからしたらよくある事かもしれない。シミュレーションも大事だが、その時思ったことを言おう」と運転に集中した。
力がふっと抜けるのがわかった。私は無意識に緊張してしまっていたようだ。

受取時、笑顔で渡してくれた店員さんに、「メール気づかなくて来るの遅くなってごめんなさい。ありがとうございました」と言った。

怒ってなさそうだし、次のお客さんが待ってたので言葉をかけようが迷った。でも思い出の品が綺麗になって帰ってきたのが嬉しくて「ありがとう」は言いたかった。あとやっぱり来店が遅くなったことは謝りたかった。

店員さんは「全然大丈夫ですよ!ありがとうございました〜!」と明るく返事をくれた。

心がぽかぽかした。
今までのシミュレーションばっちりの謙った言葉は「私は言いたくないけど、言わないといけないから(怒られるから)言う」だったんだなぁと気づく。
幼少、酒で理性を飛ばした親の怒りを鎮めるために、私はこうしていたのだろう。
それがあまりに私のアタリマエになりすぎていた。

いいですよと言ってくれた店員さんは笑ってくれていたことにふと気づいた。
私は人の目を見て話すのが苦手で、相手の表情ではなく声色でどう思っているのか判断していることがよくあった。
「『大丈夫』と言ってるがこの言い方と声の低さは本当は大丈夫じゃないな」というように。
そうやって目の前にいる相手とではなく、私の脳内がイメージする相手とコミュニケーションしていた。
だから、生きててしっくりこないというか、私はここにいるのにいないような疎外感があったのかもしれない、と、今文章にしてて思った。

目を見て、その時感じたことを、思ったように伝える。
こう言ったらどう思われるかな、こう言いたいけどそれは変だ酷い奴だ言われそうだからやめようかな、なんてこねくり回す必要はない。
「私はどう思った?」それ以上でも以下でもない。
とてもシンプル、なんの引っ掛かりもない。

長々と文章にしたが、一言にするなら「素直に生きる」ことなのかな。
難しいが、なんでもかんでも思ったことを言うのとは違うんだよね。
「なんでそれが言いたいのか?」と立ち止まって、「誰かのため」だったら「言って私はどうなる?」を考える。
鬱憤を晴らしたいのか、本当に心配だと伝えたいのか、笑ってほしいという自分勝手な願いやコントロールしたいという黒い感情が隠れてないか、と。
それらを自覚しても言いたいなら、言う。

「素直」を胸の真ん中においてコミュニケーションしてみたら、なんとストレスの少ないことか!
こうやって「素直」に生きていいんだなぁとぽかぽかした。
いつもより活動したのにやる気がみなぎり、寄り道をしてみたり帰宅後もいろいろがんばれた。
明日は後回しにしていたあれやこれややろうと考えられるくらい。

生きてるってこういうことかぁ。



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