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良い「努力」ってなんだろう?〜エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読んで

以前、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んで、自分の「努力」の源泉が、単なる抑圧された感情の表出なのではないかと不安になった、という話を書きました。

その結果…

めっちゃ楽しく資格(検定)の勉強するようになりました!

なんでだよ!?

というのが今日のお話です。


エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』

エーリッヒ・フロム(1900-1980)はドイツの社会心理学。代表作は『自由からの逃走』『愛するということ』など。『自由からの逃走』を読んだ感想はこちらの記事に書きました。

現代にも蔓延する無力感からの「努力」

『自由からの逃走』を読んで、無力感から生じる「目的のない努力」というものの存在を知りました。以下は「目的のない努力」を生み出した16世紀の大発明家・カルヴァンのカルヴァニズムについての説明です。

個人がみずからの行為で、その運命を変えることができるというのではなく、努力することができるということそれ自体が、救われた人間に属する一つの証拠なのである。さらにカルヴァニズムが発展すると、道徳的生活とたえまない努力の意味とを強調することが重要になり、とくにそのような努力の結果として、世俗的な成功が救済の一つのしるしであるという考えが重要になってくる

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』より

つまり、人の努力の源泉は「こんな風になりたい!」という前向きな気持ちからだけではなく、「努力することで自分は救われるはず」という無根拠な安心感からくる場合もあるということです。カルヴァンの説いた「救い」はキリストによる救いを意味していましたが、似たような無根拠な安心感をエサに無目的な努力を煽る発言は、現代でもあちらこちらで目にします。

例えば、

20代30代で苦労しておけば、40代以降は仕事に困らない。若い頃はがむしゃらに働いた方がいい

SNSでよく見かける主張を適当にマネて書きました
(正確には引用ではなくてスミマセン)

とか。これは「努力」すれば40代以降の安心感が手に入るように見せかけた、カルヴァニズムの亜種。

嘘つけ。若い頃にバリバリ働いてた知人、このあいだ、事実上のリストラにあったわ。

20年も経てば時代は変わるので、若い頃の努力が無に帰すことなんてザラです。おそらく、どっかのブラック企業の経営者が若者の労働力を搾取するためにSNSで煽ってるのでしょう(もしくは搾取された人が自己正当化のために呻いてるか)。

あとは、某音声配信プラットフォームで流行りの「学びと成長」案件。

ほとんどの大人は学んでない!私の配信で学びと成長!そうすれば数少ない勝ち組になれるよ!

某所でよく見かける主張を適当にマネて書きました
(こちらも正確には引用ではなくてスミマセン)

これも、「学びと成長」という「努力」をすれば(=自分の配信を聴けば)、勝ち組という選ばれた人間になれるという妄想…もといカルヴァニズムの亜種。

このようにカルヴァンの発明した煽り文句は現代でも形を変えて蔓延しているようにみえます。

良い「努力」とは?

じゃあ、「努力」なんて無駄な馬鹿げた行為なの?と思われるかもしれませんが、私はそうは思わないし、たぶんエーリッヒ・フロムもそう言ってなかったと…思います

フロムは『自由からの逃走』の中で「…からの自由」「…への自由」という2つの自由を定義しています。

「…からの自由」というのは、自分を抑圧するものから逃れるための自由であり、そこに、なんらかの目的や目標は存在しません。一方で「…への自由」は「全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」(P285)積極的なもの。たぶん…自分の「やりたい!」「なりたい!」という自然な気持ちをそのまま表出する自由…という意味だと思います。(正確じゃなかったらスミマセン。)

なので「安心したい」「不安から逃れたい」ではなく、「やりたい!」「なりたい!」という自発的な気持ちが原動力になっている「努力」は、フロムの言うところの「…への自由」であって、良いことなんじゃないかなぁと思います。

私が楽しく勉強するようになった理由

…ということを考えて、自分の「努力」の理由が、「不安から逃れたい」からなのか「やりたい!」なのかを棚卸ししてみることにしました

その結果、私の「ある試験に合格したい」と思っていた理由は、「不安から逃れたい」という気持ちと、「やりたい!」が仲良く同居してたことに気づきました(爆)。ちなみに試験というのは統計検定のことで、いま、統計検定準一級が欲しくて勉強してます(笑)

確かに、統計検定の存在を知ったのは、どこかの求人の採用目安になっていたのがきっかけでした。転職する気は今のところないものの、将来への漠然とした不安を少し解消する目的は確かにありましたね。しかも、採用目安になってたレベル(二級)はもう合格済み。にもかかわらす、その上のレベルで合格したいと思ったのは、そこに、SNSで「勉強している大人はごくわずか」という煽りを受け、なんとなくペンを持っていると安心する…気持ちがあったことは否定できません。

一方で、「やりたい!」「なりたい!」という自発的な気持ちがあることも確か。そう、そうだった、私は、仕事でアンケート調査をした時に、人様から頂いたデータと正しく向き合えるようになりたい、と思ったんだった。

それに意味を正しく理解した上で「バリマックス回転!」と叫べるようになりたいんだった!!(中二病)
※バリマックス回転は準一級の出題範囲です。

でも「不安から逃れたい」気持ちが先行していて、すっかりそんな前向き(?)な気持ちは忘れていました。無論、心の片隅では、試験の結果ひとつで、他者から抜きん出ることも、将来の不安が解消されることもないことは分かりきっているわけですから、「不安から逃れたい」という動機で頑張ることはできません。なので、テキストを買ったはいいけど、箪笥の肥やしになっていました。

でも、自分のなかの「やりたい!」「なりたい!」という動機を再発見して、やる気アップ!最近、楽しく勉強しています!

趣味として。ははは。

そんなわけで、なんとなくやろうと思ってた勉強が手につかないな〜という方は、自分が勉強する目的が、フロムの言うところの、「…からの自由」なのか「…への自由」なのか…と自問してみるといいかもしれません!

※ ちなみに、「勉強している大人はごくわずか」という言説について調べてみた!というブログも過去に書いてます。フロムの本を読む前でしたが、もとから不信感はあったんでしょうね。




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