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日本のデザインの近代化を牽引した原弘さん(前編)

こんにちは!デザインこねこの長嶺きわです。

お盆に、夫の両親が住む大分へいってきました。息子は久しぶりにいとこ達に会え、とても楽しそうでした。1日目は大分県立美術館OPAMで、養老孟司と小檜山賢二「虫展」と、「北斎と広重 冨嶽三十六景への挑戦」をみました。
「虫展」は対象物の全てにピントがあう深度合成技法を使った写真を大きく引き伸ばして展示してあり、とても迫力がありました。特に、トビケラの巣の写真は、ジュエリーのように美しかったです!2日目は昭和を感じられる遊園地「ラクテンチ」にいきました。昔ながらの遊園地で、アヒルのレースがあり、とても可愛かったです。
3日目は私が行ってみたかった、大分県の名勝1号である「納池公園」にいきました。大きな老杉がたくさんある公園の奥に進むと、水が地面から湧いているところを見ることができました。その後、河川プールという、川をそのまま利用したプールにいきました。大分の夏も小田原に負けず、かなり暑かったです!

大分

日本のデザインの近代化を牽引した原弘さん(前編)

今回は昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの原弘さんをご紹介します。

1903年生まれの原弘さんは、第二次世界大戦前、戦中、戦後から高度成長期を経て成熟期に至る日本の激動期に生き、日本の近代デザインの始まりから成熟期まで網羅しています。

その頃の日本のグラフィックデザイン界には、三越呉服店のポスターや大蔵省専売局(現・JT)のたばこのパッケージを手がけた杉浦非水さん(1876-1965)、アールデコ様式を取り入れた優美なスタイルと資生堂初期のデザインアイデンティティを確立した山名文夫さん(1897-1980)、モダニズムにいち早く目覚め平面から空間デザインまでを手がけた河野鷹思さん(1906-1999)がいました。その中で、理論的アプローチでデザインの近代化に臨んだのが原弘さんです。

学校を卒業後は教員をしながら学ぶ日々


原弘さんは1903年、長野県で印刷業を営む「発光堂」の原四郎さんの長男として生まれました。1921年、18歳で東京府立工芸学校(現 東京都立工芸高等学校)の印刷科を卒業しましたが、実家には戻らず、母校の製版印刷科の助手に就任し、印刷図案と石版印刷を教え始めました。その際、技術指導のための教科書ともいえる冊子『ひろ・はら石版図案集』と『原弘石版図案集Nr.Ⅱ』を独自に刊行しています。教科書を自作するなんてすごいですよね。

この頃、ヨーロッパは第一次世界大戦とロシア革命を経て激動の時代を迎えていました。芸術分野では、キュビズム、未来派、ロシアアヴァンギャルド、パリやニューヨークを中心としたアールデコ様式、チューリッヒのキャバレーで生まれたダダイズム、そして1919年には、敗戦国ドイツのワイマールにおいて、グロピウスらによって「バウハウス」が設立されました。

日本では、大正デモクラシーを経て、自由で民主的な気運が高まり、欧米からの新興美術運動の影響を受けた新興美術運動が隆盛を極めていました。原さんも、プロレタリア演劇を多く上演していた「築地小劇場」(前回のメルマガでご紹介した、和田誠さんのお父さんが創立メンバーの一人)に足繁く通い、ヨーロッパの新興芸術運動を体感していたそうです。

1927年、24歳で「造形美術家協会」に参加。同協会は翌1928年、機関誌『造形美術』を創刊し、同時に「造形美術家協会絵画研究所」を設立しました。原さんはこの研究所に出入りしながら、「無生産者新聞を読め」「鎖を切れ!」といったポスター作品を発表し、デザイナーとして頭角を現しました。

1932年、29歳のときにバウハウスを知り、近代デザインの思想や理論を独学で学び、自らの研究成果として『新活版技術研究』を刊行し、「ニュータイポグラフィ」の概念を紹介しました。また、ドイツの雑誌で見た、二色刷りのシンプルかつ大胆なデザインに衝撃を受けたといいます。

その後、写真家の野島康三さんが主宰する雑誌『光画』に集まる人々との交流をきっかけに、1933年、「日本工房(第一次)」の設立に名取洋之助さん、木村伊兵衛さん、伊奈信夫さん、岡田桑三さんらと共に参加しました。府立工芸学校の教員を務めながら、授業後は日本工房の事務所に通っていたそうです。しかし、「日本工房(第一次)」は名取さんと他のメンバーとの軋轢により、原さんは木村伊兵衛さん、伊奈信男さん、岡田桑三さんらと共に脱退し、1934年に「中央工房」を設立しました。一方、名取さんは、山名文夫さん、河野鷹思さん、亀倉雄策さんらを迎えて、第二次「日本工房」を再結成し、後に海外広報誌『NIPPON』を発行しました。

中央工房は、事務所内に国際報道写真協会を設立し、展覧会や印刷物の制作を行うことになりました。 原さんにとって大きな仕事の一つは、1937年、34歳のときにパリで開催された万国博覧会の日本館で展示された「日本観光写真壁画」の制作でした。高さ2.2メートル、幅18メートルの大壁面に、日本の四季や自然、名所や風俗を写真で構成した巨大な観光ポスターで、原さんは写真の選定から画面の構成までを担当しました。印刷、写真、文字、構成というグラフィックデザインの基礎技術を駆使したこの作品は、日本のデザインにおける重要なステップとなりました。

20年間務めた教員を辞め、デザイン活動に専念

1941年、38歳になった原さんは、20年間務めた府立工芸学校の教職を辞め、活動の軸をデザインに移しました。

同時に、岡田桑三さんが設立した出版社「東方社」の美術部長に就任し、同社が発行する大日本帝国の対外宣伝グラフ誌『FRONT』のアートディレクターを務めました。

『FRONT』はA3判の2色グラビア印刷による大判の雑誌で、その目的は国外向けに日本の国威や思想を広報することでした。最大で15カ国語に翻訳され、原さんはすべての言語版のデザインを手がけました。

しかし、『NIPPON』と『FRONT』はともに戦争のプロパガンダメディアとして、戦後は批判の対象となり、これらに関わった編集者、写真家、デザイナーたちは、ある種の負い目を感じさせられることになりました。東方社は1945年3月の東京大空襲で社屋が全焼し、翌年には戦後のメンバーを中心に新たに「文化社」を設立しましたが、いくつかの印刷物を手がけるに留まり、1947年に解散を余儀なくされました。

1947年、44歳で原さんはフリーランスとなりました。「正直言って、デザインで妻子を食べさせる自信はなかったし、デザインで生計を立てることになるとは思っていなかった」(1970年『日本デザイン小誌』ダヴィッド社刊)と当時の心境を語っています。

当時の日本人はみなそうであったように、厳しい生活を余儀なくされたようです。1950年には、『児童百科事典』の創刊に伴い、編集委員に就任。その後も平凡社の顧問として、多くの百科事典の装丁に関わることとなりました。

1951年、48歳のとき、原さんは山名文夫さんを委員長に、河野鷹思さん、亀倉雄策さんら約50名のデザイナーと共に職能団体「日本宣伝美術家協会(日宣美)」を結成しました。日宣美は展覧会の開催や作品公募および入賞作品の選定を通じて、グラフィックデザインの地位向上や若手の発掘を担いました。

原さんは雑誌の対談で「本当に世界でも、これだけ会員が多くて民主的に運営されている会は珍しいのではないでしょうか。定期的に展覧会を行い、それが社会的に反響を呼び、若い人たちがだんだんそこに集まってくるのは、どこへ行っても驚かれると思います」と語り、現実社会で生きた経験がなければ、デザインの仕事はできないとも述べています(『デザイン』No.32、1962年)。

しかし、1970年、学生運動の影響で「日宣美粉砕共闘」が審査会場に乱入し、20年間にわたる活動は終焉を迎えました。


いかがでしたでしょうか?
今回は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの原弘さんをご紹介しました。
原弘さんは、印刷業を営む家庭に生まれ、その影響で印刷学科に進学されました。しかし、実家を継ぐことなく、印刷学科の教員となりつつ、さまざまな人々と出会いながらデザイナーとしての活動も続けました。

その間、海外のデザインを深く学び、近代デザインの思想や理論を独学でまとめた書籍を刊行されるまでに至りました。これらの経験がすべて結びつき、原弘さんが装丁デザイナーとして卓越した才能を発揮された背景には、印刷に関する深い知識とデザインへの探求があったのだと思います。
次回は、原弘さんの装丁デザインに焦点を当ててご紹介いたします。

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