久しぶりに本を読み終えました。
「私」という言葉があるから、「私」という固定したものが存在していると捉えてしまうのであって、本当は諸行無常のつかみどころのないなにか、到底、言葉で簡単に規定できないような何か、が、私たちが、「私」と捉えている正体なのかもしれない。
人と人が出会い、交錯する、その場、そのものに、正解を求める以上に、敬意を払って大切にする。違いがあっても違いは違いのままに、出会い、交錯し、場をつくるプロセスとして、それ自体を貴重で神聖なものとして取り扱うことが大切なのかも。
他者に対し、先入観で対応するということは失礼なこと。自分も、他者も、常に変化している。その新鮮さ、貴重さを、きちんと自覚して、未知なところがある存在として、わかっていないところがある、無知の知を自覚して、コミュニケーションすることが、敬意というものなのかもしれない。
わからないから、面白い。関係性・対話の中であぶりだされてくるもの。それが自分っていうのは、まさに「人間」という感じがする。
リカバリー、レジリエンス。そういった力を培うためにも、対話することを日常的に、意識的に。組み込んでいこう。やっていこう。
好きとか嫌いとか、そういったことに囚われて生きているというのは、実は貧しいことなんだよな。
こういう想像力をもってこそ、「人間」。
「期待するコミュニケーション」は、刺激的で面白いし楽しい。「期待しないコミュニケーション」は低刺激だが、穏やかだ。面白さや楽しさを、低刺激・穏やかさの中から見出す知性が試される。
こんな関係性が当たり前になればいいと個人的には思うけど、現実社会は全くそうではない。
長い目でも人を見守る意識。早急にわかりやすい結果は出てこなくても、祈りをこめて、きっと大丈夫、と思って、自分の期待と違ったら違ったで、それもまた、新しい価値として認められるような余裕。
いじめって気持ちいいからなくならないんだよね。いじめをすることで、向き合いたくないことをごまかしたり、中途半端に心を癒せちゃったりするもんだから、短絡的に、多くの人が飛びついてしまう行為なんだよな。
「感謝」とか「絆」とかポジティブワードほど、「呪い」としての力、同調圧力は、より強くなりがちですな。