麒麟の夢【掌編小説】
今朝、愛知の動物園でキリンの白変種が産まれたというニュースを見て、私の頭にある青年の姿が浮かんだ。
彼がなぜ私の元へ通うようになったのか、そしてなぜ私にその日見た夢の内容を報告するようになったのか___今となっては始まりなど本当にどうでもよいことなのだが___どれだけ遡ってみても、うまく思い出せない。
彼は休園日を除く毎日、きっかり17時に私の元へやってきた。17時というのは、私が働く動物園の最終入園時刻であり、私を含む全ての従業員が最も忙しく動き回る時間である。
私は決してお人好しな性格ではなかった。それでも、清掃作業中に突然やってきた青年を、私は不自然なほど自然に受け入れた。まるでセンジュイソギンチャクがカクレクマノミを匿う時のような___こんなことを考える私はどうかしているのかもしれないが___私と青年の間に、出会いという明確な地点はなかったのかもしれない。
彼が語る夢の内容は、如何にも“夢の中”というような、神秘的な設定や突拍子のない展開があるわけではなく、ありふれた日常の中に僅かなダークファンタジーが混ざったような、限りなく現実に寄り添ったものだった。
夢の中で、彼は色々な職種の人間、はたまた全く異種の動物として登場していた。私が聞いた中で、彼が彼自身の姿をしていた夢は一つとしてなかったように思う。
彼はその日見た夢で繰り広げられた会話の内容を一言一句、鮮明に記憶していて、私はいつもその話ぶりに引き込まれた。その夢___私は勝手に「小説家」というタイトルをつけて記録しているのだが___の中で、彼は一流作家と、そのアシスタントになっていた。
「先生、だめです。僕は救いようがない。あれから何遍も新しい小説を書いてみましたが、どれもこれも同じ結末に収束してしまうんです。僕はどうしても主人公を殺さざるを得ない病に罹っています。きっと僕は自分を無意識に投影しているからなんだ、僕は死にたいだなんてただの一度も思ったことがないのに!一体どうすればいいというんです、僕の本心を知るために、僕の心から夢中になれるものを求めて書き始めた小説は、僕は心から死にたいと希っているんだと言っている。それじゃあ、僕が必死に物語を書き進めていた時間、今ここで先生と向かい合って話している時間はなんなんですか。苦しみですか、無為ですか、空白ですか。死ぬことが僕の唯一の望みだというんですか。そんなのあんまりだ!希望もクソもないじゃないか!」
「君。君が今言ったことは全ての作家が共通して知るこの世の理だよ、まさしく。思いを文字に書き起こす者、特に物語を紡ごうなんて特異なことをする者は、それぞれ紆余曲折を経て一つの結末へと着地する羽目になる。即ちみな死するということ。無常、メメントモリ、南無阿弥陀仏、記録に残るものはみな死生論を語っているね。人類はその限りある脳みそが目覚めたその瞬間から、絶え間なくこの事実と向き合ってきた。今も昔も、文章を書くものの特権は、生者必衰の理を、自信を持って、或いは絶望を持って知ることができる点にある。君は間違いなく歩を進めたよ。ここから物事がどう転んでゆくかは、___些細な違いではあるが___君次第といったところだ」
これは私が聞いた彼の夢の中でも、かなり真に迫る部類のものだった___。
またある夢で、彼は都会の猫になっていた。都会の猫はよく喋る。もちろん、夢の中の話だが。
「この前シブヤに行ったんだ。結構悪くない場所だったね。ほどよく汚くて、高いところもいっぱいあって、人間は俺たちがいることに全く気付かない。つまり、何をしてもノープロブレムってわけだ」
「でもよ、あの場所に行くと、毎回気持ち悪くならないか?なんていうかさ、耳鳴りがするんだよ。高いところから押さえつけられてるみたいに。どこにいても巨大な何かに支配されている感じっていうのかな。とにかく、俺は居心地がいいと思ったことはないな」
「あたしも好きじゃないね。なにが面白くてあんな犬っぱちの銅像に人が群がるのかわかりゃしない」
「言えてる!」
「けどシブヤにはいっぱい食べ物があったよ?私は楽しかったけどな」
「俺が思うにはさ、あの街は”デカい声”だけで作られてるんだよ。俺たちは高い場所が好きだろ?なぜと言われてもうまく答えられないけど、とにかく俺たちは高い所を見つけたら上らざるを得ない。そういう生き物なんだ。
シブヤには高い場所がたくさんある。でもあそこでは、どれだけ思い切り跳んでも、どれだけ身を軽くしても、どれほど切実に叫んでも届かない。“デカい声”以外は聞こえないんだよ。何をしようとね。だから、良くも悪くもはっきりしてる場所だとは思うぜ。好きかと聞かれれば、決してそんなことはないけど」
またある夢で、彼は酷く見窄らしい大貧民だった。
「俺は人生の目的として、純粋に、心から、成功者になることを求めていたんだ。本当だぜ?だけど、実際にそのことを考えたり口に出したりするのは、ひどく愚かしい行為、もっと言えば、自分自身への背徳行為のように思えた。何にも悪くない、むしろ褒められるべき態度なのにな。でも、一度そう思ってしまったら最後、そこからの俺は成功者という言葉を自然に避けるようになっていたんだ。世間で成功者と言われる人を見ても羨ましいとは思わず、むしろ可哀想だと思った。目標も立てず、人とも喋らず、何を見ても感動しない。あるのは行き場のない破壊衝動だけだ。
あぁ、俺も普通の人みたいに「成功したい」とか口に出していれば、今頃はお金持ちで、幸せだったはずなのになぁ。おい、お前もそう思わないか?」
彼が言うには、大貧民が語りかけているのは薄汚れた手鏡で、鏡は最後の問いかけに対して何も答えることはなかったという。当たり前だ。彼の夢はあくまで現実に即しているのだ。
その日見た夢を語り終えた彼は、必ず去り際に「キリンを見させてください」と言った。
もちろんここは動物園なのだからわざわざ私に許可を取る必要などなく、どうぞお好きにキリンでもゾウでも見てくれて構わないのだが、彼は毎回律儀にお願いするのだった。
私も、律儀に彼をキリンのいるエリアまで案内した。そして__別に頼んだわけでもないのだが__熱心に興味深い夢の話を聞かせてくれたお礼にと、本来屋内のケージに入っていて見られるはずのない赤ちゃんの姿も見せてやった。彼はしばらくキリンを眺めると、満足そうに帰ってゆくのだった。
私は普段あまりじっくり見ることのない動物コラム[キリンさんの睡眠時間はどのくらい?]を読んで、ふと思った。“キリンも夢を見るのだろうか?”
彼が最後に語ってくれた夢の中の会話は、私にとって驚くべき内容だった。
「飼育員になりたいのなら、その性格をなんとかしなくちゃ始まらないわよ」
「俺の何がいけないんだ」
「分からないの?あなたが心底くだらないと思っている人、存在価値がないと思っている物は、みんなあなたの姿を投影しているだけなのよ。つまり、あなたは自分を愛することができないの」
「そんなこと、仕事になんの関係もないじゃないか」
「はあ、あなたって何も分かってないのね。自分を愛せない人が、他の生き物を愛せるわけがないじゃない」
「ふざけるな。俺は動物が好きで、愛しているから飼育員になるんだ」
「あなたの言う愛は暴力よ。自己破壊衝動を別の身体で逃しているだけ。お願いだから、生き物と関わる仕事をしたいだなんて言わないで...。お願いだから、これ以上、私以外の誰かを傷つけないで」
これは私が当時付き合っていた彼女と交わした最後の会話である。私はこの会話を聞いて、ようやく青年の正体が分かった。
彼は私自身の罪だったのだ。罪であり、償いだったのだ。
私が気づいた時には、彼の姿は消えていた。私にできる事は、仕事を辞めて、世間に罪を告白する事だった。
私は最後にキリンの姿を一目見ようと、徐に持ち場を離れた。キリンはいつも通り涼しい顔をして、高いところから世界を見下ろしていた。
朝起きて、その日自分が見た夢の内容を思い出す事は、その気になれば誰でもできるという。私も小さい頃に夢日記をつけていた時期があった。
ただ、夢で交わした会話の内容を思い出す事は、殆ど不可能だそうだ。確かに、私が書いていた夢日記にも、登場人物や大まかな展開が書いてあるだけで、会話文など出てきたことがなかった。そもそも会話が登場する夢など、一度も見たことがないように思う。
それまでの私は、ほとんど満足に眠ったことがなく、毎晩彼女の亡霊を見てはうなされていた。寝たくても寝られないというのは、想像以上に辛く、苦しいものだ。それに加えて私は、私自身を強い力で押さえつける必要があった。
収容所に入れられて一週間は経っただろうか。未だに夢は見ていない。新聞の端に載っていた白いキリンの写真は、とても神秘的だった。今日はなんだか夢をみられるような気がする。