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伝統仏教のすすめ:ナーガールジュナ(龍樹)『宝行王正論』を読む

(この記事は、東京・代々木のホリスティックラウンジからの配信講座「ナーガールジュナ『宝行王正論』を読む」全7回の要約です)

 古代インドの高僧ナーガールジュナ(龍樹)は、大乗仏教を確立した存在として知られています。
 ナーガールジュナの著作としては、圧倒的に『中論』が有名ですが、今回、『宝行王正論』を選んだのは、現代人が伝統仏教を学ぶのに最適のテキストだと考えたからです。

政治論

 『宝行王正論』は、ナーガールジュナが親しい南インドの王のために説いた教えで、あるべき政治のあり方についての論が多く含まれています。それは、一言でいえば、社会福祉国家の実現で、古代のインドで、専制君主である王に対して説かれた教えであることを考えると、驚くべきものです。

 災害が起きた時は税を減額あるいは免除する、旅人の便宜をはかって水を飲むことのできる休憩施設を道に設ける、地方長官から報告を受けて人々の実情を把握する、教育の充実、刑罰は報復ではなく受刑囚への慈悲の心から、死刑は廃止、等々。

 これらの政策の提言は、「自分は苦しみは望まず、幸せを望んでいる。衆生も自分とまったく同様に、苦しみは望まず、幸せを望んでいるのだから、苦しみを与えてはならない、できるなら幸せを与えるべき」という仏教のシンプルな考えからなされています。

 仏教はインドで盛んになった時期もありましたが、主流の考えではありません。インドでは古代から現代に至るまで、カースト制度が大きな影響力を持っていて、司祭者のカースト(バラモン)が神々をまつるというのが、インドの主流の考えです。

 古代の一時期、非バラモンの宗教家が多数登場した時期があり、釈尊はその一人でした。その背景としては、生産力が向上して富の蓄積や流通がおこり、王族や商人が力を持つようになり、都市が生まれたことがあったと考えられています。
 釈尊を支持したのは、その王族や商人たちでしたが、今に伝わっている仏教は、出家した僧侶によって寺院の中で伝承され、発達してきたものであるため、なぜ当時の王族や商人が釈尊の教えに惹きつけられたのか、わかりにくくなってしまっています。
 『宝行王正論』を学ぶことで、仏教が世俗の社会、生きている人々にどう役立つかを理解することができます。

仏教の全体像

 伝統的理解では、仏教は一律の教義に従う教えではなく、釈尊はその人その人に合わせて異なる教えを説いた(「対機(たいき)説法」)とされています。そのため、仏教の全体像を知ることは容易ではありません。
 その全体像が、『宝行王正論』で示されています。
 それは<繁栄の法>から<至福の法>へという流れで、前者では信、後者では智慧が重要になります。

 <繁栄の法>とは、悪いことはせず、いいことをすることで、天の神々の世界や再び人間に生まれることを目指す教えです。
 その前提となっているのは、よいことをすればよい報いがある、悪いことをすれば悪い報いがあるという因果応報の考えですが、私たちの知見の範囲内では、悪いことをした人が罰せられず、いいことをしても報われない事例も存在します。
 そういう人は死後地獄で苦しみを受けたり、天の神々の世界に生れて報われる、というのは、私たちは見ることができません。一切智者である仏陀はそれを見通して説かれているのだからと、釈尊の言葉を信じて実践します。

 そうやって心が次第に訓練されていくと、物事の真のありようを理解する智慧を得ることができるようになります。智慧によって輪廻から解脱することができます。それが<至福の法>です。

 前者は阿含経典で釈尊が在家の人々に説いている教え、後者は出家の弟子に説いている教えに相当しますが、興味深いのは、『宝行王正論』のなかの後者に関する阿含経典からの引用で、何らかの実体を認める当時の部派の解釈には一致せず、「五蘊皆空」「一切皆空」を説く大乗の仏教理解に適合するような教えが選ばれていることです。

 『宝行王正論』からは、当時、大乗経典を認めない側の方が有力で、王も大乗経典に懐疑的だったことがうかがわれますが、いきなり大乗を説くのではなく、阿含経典の教えに基づいて仏教の全体像を紹介している箇所で、さりげなく部派の解釈とは相容れない阿含経典の言葉を引用しているのは、ナーガールジュナの戦略として、興味深いところです。

 ナーガールジュナの『中論』はとても有名ですが、そこで仏教の全体像が説かれているわけではありません。仏教のある部分に特化した教えで、それだけを読んでナーガールジュナの意図を正しく理解することは容易ではありません。
 インドにまだ仏教が存在した時代、もっとも詳しい『中論』の註釈書(『明句論』)を著したチャンドラキールティは、『宝行王正論』で紹介されている仏教の全体像のなかに『中論』の内容を位置づけることで、『中論』の読解を試みています。

大乗仏説論

 『中論』は、私見では、極めて手の込んだ戦略的な論で、一見、大乗経典に依拠して、阿含経典に依拠する部派の仏教理解を批判しているように見えますが、そもそも部派は大乗経典を認めておらず、その内容に基づいて批判されても、いたくもかゆくもありません。
 『中論』が依拠しているのは、実は阿含経典で釈尊が用いている論理(四句分別否定、四不生、有身見否定など)で、大乗の教えだと思って批判すると、実は阿含経典の釈尊の教えを否定することになってしまう。そのことに気づいたら、自説を引っ込めざるをえない、という、囲碁や将棋で相手を追い詰めているように見えて、相手の策略にはまり、気づいた時には自分のほうが詰んでしまっている、という構造になっています。

 釈尊が説いた教えを聞いた弟子が集まって編纂したとされるのが阿含経典で、大乗経典はそこに含まれていない時点で、疑問に思うほうが自然です。
 なぜ、大乗経典を認める必要があるのか、それが全面的に説かれているのが、この『宝行王正論』です。
 北伝=中国や日本、チベットなどの伝統は、阿含経典だけでなく大乗経典も認めますが、それはこのナーガールジュナの仏教理解に従っているからです。

 伝統的理解では、仏教は医学的な教えとされています。患者が医学的な知識を知っている必要は必ずしもなく、信頼できる医師の指示に従えば病気はよくなります。ですので、なぜ私たちの伝統が大乗経典を認めるのかを理解しないまま、大乗経典である『般若心経』を唱えたり、写経をおこなっても、別に問題はありません。
 しかし、なぜ私たちの伝統が、認めない伝統もある大乗経典を認めるのかを理解しようと思うなら、この『宝行王正論』で展開されている論を参照する必要があります。

 それは、三十二相八十種好(仏像などで表現されている仏陀の身体の特徴)の因についての論からはじまります。
 伝統的に、三十二相八十種好をそなえているのは転輪聖王と仏陀だけ、といわれますが、まず、転輪聖王の三十二相ひとつひとつの因が説かれ、それと仏陀の相好とその因は比べ物にならないこと、仏陀の色身の因が果てしないものであるなら、法身の因が果てしないものであることは言うまでもない、と語られます。
 仏陀の境地に至る実践である六波羅蜜は、内容的に、一切衆生に対し利他をなすこと(福徳資糧)と一切皆空の理解(智慧資糧)に集約されます。それは有限なものではありません。
 仏陀は無上正等覚者(アヌッターラサンミャクサンブッダ)の略で、もしその因が有限なものであるなら、釈尊以上にそれを積み重ねるならば、仏陀の境地を越えることが可能になってしまい、無上正等覚=このうえないさとりとは矛盾してしまいます。

 大乗経典で説かれている実践は、(消極的には)阿含経典で説かれる実践内容と矛盾するものではありません。
 それを認めるべき積極的な根拠としては、仏陀の境地やそこに至る実践は、阿含経典では主題的に説かれてはいませんが、それを知っている者=大乗経典の製作者がいるとして、仏陀の境地やそれに至る実践を知っているのは、仏陀その人以外にありえない。だから大乗経典は仏説と認めなければならない、と『宝行王正論』は説きます。
 そこで持ち出されるのが、文法学者のたとえです。
 文法学者が初心者に教えるときはアルファベットから教えるように、釈尊はそれぞれの能力に合わせて異なる教えを説いた。
 だから、釈尊から教えを受けた弟子が編纂したという阿含経典に釈尊の理解したすべてのことが言いつくされているとは限らない。自分が知らない、理解できないないからといって大乗経典を否定するのは、仏陀の教えを否定することになりかねない、というのが王に対するアドバイスです。

菩薩の実践

 大乗の、仏陀の境地を目指す菩薩の実践についても、『宝行王正論』で説かれています。
 『宝行王正論』の内容から逆に推測して、大乗を認めない人が抱いていた疑問のひとつとして、仏教は苦しみからの解放の道のはずなのに、利他の実践をおこなえば、他の衆生はいいかもしれないが、自分自身は苦しみを得るのでは? というものがあったと思われます。
 それについて『宝行王正論』は、菩薩の境地に応じていくつかの答えを用意しています。

 ひとつはすでに空性を理解した聖者の菩薩の場合。
 煩悩によって苦しみが生じるのであり、煩悩を断ち切った菩薩の心には苦しみがないと説かれています。

 まだ空性を理解するに至っていない、初心者(凡夫)の菩薩の場合。
 その場合は、たしかに苦しみは存在するが、その実践によって仏陀の境地という大きな利益が得られるのだから、その苦と利益の大きさを比べるべきと説かれます。それが認められないなら、病気を治すために医師が苦い薬を処方することも認められなくなる、とナーガールジュナは説きます。

 聖者の菩薩の階梯としては、『華厳経』十地品(『十地経』)にもとづいて、菩薩の十地が説かれています。
 チャンドラキールティの『入中論』では、この菩薩の十地が詳細に説かれています(いくつか日本語訳がありますが、専門書で、高価です)。

 王に対しては、二十の偈を毎日三回唱えることがすすめられています。
 それは、仏陀に対して菩薩の誓いを立てるものです。毎日の実践としてこれをおこなうのは、菩薩の誓いを守り通すことはきわめて困難で、日々の生活で破り続けることになり、あらためて誓いを立て直す必要があるからです(この『宝行王正論』の偈そのままではありませんが、チベットにはこの伝統が受け継がれています)。
 その第十九偈で、次のように説かれています。

「生きとし生けるものを(自己の)生命のように愛し、さらに、自己よりも彼らをより深く愛しますように。自らに彼らが悪を結果づけても、自らの善はあますところとなく、彼らに報われますように。」(瓜生津隆真訳。『龍樹論集』中公文庫所収)

 自分に苦しみをもたらす者にも慈悲の心を保つことができるよう祈るのは、一切衆生を苦しみから解放するために仏陀の境地を目指すという菩提心をおこした時に、一人でも「こいつだけは救いたくない」と思ってしまったら、菩薩の誓いが根本から崩れてしまうためです。
 北伝では、阿羅漢となったシャーリプトラも前世では菩薩の道を歩んでいたことがあり、バラモンに目が美しいからと自分の目を乞われて、目を抉り取って与えたところ、血だらけできたないからいらない、と捨てられて踏みつぶされてしまい、怒りの心をおこし、菩薩の道からはずれてしまった、とされています(『大智度論』『入菩薩行論』)。

 この『宝行王正論』の心を受けついでいるのが、チベットで宗派を超えて盛んに実践されている、心の訓練(ロジョン)です。そのテキストのひとつ、トクメーサンポ『三十七の菩薩の実践』では、菩提心をおこした後、自分にさまざまな苦を与える存在に対して怒りの心をおこさないことが、繰り返し説かれています。

僧侶は伝統仏教を学ぶべき

 日本では、明治以降、当時のヨーロッパにおける仏教研究が紹介され、仏教の各宗派も、大学を作ってそこで僧侶の教育、養成をおこなったため、儀式やお経の唱え方は伝統的なものが受けつがれていますが、仏教の考え方は伝統的なものとはまったく発想の異なる近代的理解を学ぶようになって、現在に至っています。
 自分たちが受け継いできた実践がどのような考えに基づいているのかを学ぶ機会がなければ、それは単に「伝統だから」という理由だけで実践されるものになり、それがなぜ、どう役立つものなのか、について確信を得ることはむつかしいのではないでしょうか。
 仏教の実践に関心のある方、とくに仏教系の大学では、この『宝行王正論』の学習を必修にするといいのに、と思います。


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