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2022年3・4・5月のホリスティックラウンジ配信講座

 3月・4月・5月の東京・代々木ホリスティックラウンジからの配信講座のお知らせです。
 日曜または祭日の14時30分~16時におこなっています(今年から1時間半の内容になりました)。申し込まれた方には、期間限定の見逃し配信もあります。

3/27(日) マインドフルネスから見た念仏と『歎異抄』(その6)
4/24(日) マインドフルネスから見た念仏と『歎異抄』(その7)
5/8 (日) マインドフルネスから見た念仏と『歎異抄』(その8)

 西洋からはいってきたマインドフルネスは、仏教の実践(サティ、気づき)に由来するものです。アメリカでは、仏教=瞑想をおこなう宗教というイメージがあり、信じる宗教に関わらず実践できるようにアレンジされたものが、マインドフルネスです。日本の仏教の伝統では、「念」「憶念」と訳されています。念仏は、マインドフルネスの実践なのです。
 仏教本来のマインドフルネス(サティ、気づき)の実践から見ると、現在紹介されているマインドフルネスは、そのごく表層部しか生かしていません。この講座では、仏教のマインドフルネスの深さ、豊かさを紹介したいと考えています。

 親鸞聖人の教えについて、門人の唯円が著した『歎異抄』は、日本人の書いた仏教書としては、もっとも読まれているもののひとつです。明治以降の近代化のなかで、「悪人こそが救われる」という教えは、悩みを抱えた多くの人に力を与えてきました。
 ただ、読書体験としては、読んで何かを得て、それでいいのでしょうが、親鸞聖人や唯円が何を説こうとしたのか、ということを考えると、そう簡単ではありません。『歎異抄』が心を打つのは、親鸞聖人の率直な物言いー唯円の疑問に対して、同じ阿弥陀仏の同信者として、同じ目線で答えているからですが、そんな二人の親密なやりとりにおいて、共通の前提となっている仏教理解がわざわざ語られることはありません。

 そもそも、親鸞聖人の教えは、直接教えを受けた人でも誤解する人が多く、けっしてわかりやすいものではありませんでした。『歎異抄』という表題自体、親鸞聖人の没後、自分と同じ直接聖人から教えを受けた人たちが、親鸞聖人とは異なることを説いている。自分が生きているうちは訂正できるが、自分が死んだら、何が本当の聖人の教えかわからなくなってしまうだろうと、泣く泣く「異」を「歎」いて記したことに由来します。
 念仏はマインドフルネスの実践で、有名な「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の「悪人」が、マインドフルネスの実践に関わるものであることをわかって読んでいる人が、どれだけいるでしょうか。
 この連続講座では、『歎異抄』を、仏教本来のマインドフルネスをめぐる内容として読んでいきます。3月は第9条からになります。


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