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「『歎異抄』を浄土信仰の流れに位置づける ―蓮如本錯簡説を踏まえた読み直し―」明治学院大学教養教育センター紀要『カルチュール』17巻1号(2023年3月)
親鸞聖人の教えについて唯円がしるした『歎異抄』は、私にとって、表面的な意味はわかるものの、なぜそんなことを言うのか意図がわからない、腑に落ちないところの多々あるテキストでした。
なぜ、はるばる関東から訪ねてきた門人たちに、「自分は念仏以外の方法は知らないし、念仏も法然聖人から教えられてそうしているだけで、本当に往生する因なのか、地獄に堕ちるおこないなのか、まったく知らない。地獄に行くほかない身だから、たとえ法然聖人に騙されて地獄に堕ちたとしても、後悔はない」などと言ったのだろう、
なぜ親鸞聖人は唯円に「人を千人殺してみなさい、そうすれば往生は間違いない」などと言ったのだろう、
そもそも、なぜ「悪人こそが救われる」のだろう。。。
以前、慈母会館の勉強会で弘法大師空海の『秘蔵宝鑰』を取り上げた後(その内容が『空海に学ぶ仏教入門』ちくま新書になりました)、『歎異抄』を単独の思想書としてではなく、浄土信仰の流れに位置づけて読むことを試みて、浄土七祖(親鸞聖人の挙げるインド・中国・日本の七高僧。龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然)の教えを紹介したうえで、『歎異抄』に挑んだのですが、力不足で、詰め切れないところがあちこち残ってしまいました。
昨年、意を決してひと夏かけて集中して『歎異抄』に取り組み、論文を書き上げました。
浄土真宗は他の仏教とは違う、といわれることが多く、親鸞聖人の教えに対する誤解を正すために書かれた『歎異抄』が、さらに誤解を生み出してしまっているのですが、その原因(蓮如本の錯簡)と、本来の形で『歎異抄』を読むと、親鸞聖人が善導〜源信〜法然の流れを踏まえて教えを説かれていること、著者の唯円もそのことをよくわかって『歎異抄』を書いていることがわかる、ということを書きました。
私としては、この結論に満足しています。
しかし、それを判断されるのは、読者の方々です。
多くの方に読まれることを願っています。
論文は明治学院大学機関リポジトリで公開されているので、再掲はせず、PDF のダウンロードリンクを貼っておきます。
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3951&file_id=18&file_no=1