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南伝と北伝の違い(その2):八正道の位置づけ

 南伝のテーラワーダの教えでは、実践法として八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)が説かれるのに対し、北伝のチベットの教えでそれを聞くことはほとんどありません。これは、南伝と北伝で八正道の位置づけが大きく異なるためです。

 テーラワーダでは、八正道を普通の人が実践可能なものと考えます。
 それに対して、チベットの伝統では、それは空性を体験した聖者の実践で、凡夫の段階では実践できないと考えます。

 インド・ブッダガヤでさとりを開いた釈尊が最初に説いたとされるのが、四諦八正道です。
 四(聖)諦(苦しみ・苦しみの原因・苦しみの消滅・苦しみの消滅に至る実践の、四つの真理)の教えを聞いて、最初の弟子となった憍陳如(コンダンニャ)たちに法眼(ほうげん)が生じた、といわれています。これは声聞四果の最初の預流(よる)果の段階で、五道十地の実践階梯では見道、歓喜地(十地の初地)に相当すると考えられています。
 そのような聖者の境地の者のための実践法として釈尊が説かれたのが八正道で、今の私たちに実践できるものではない、と北伝では考えます。

 阿含経典の『迦旃延経』(パーリ中部「カッチャーヤナ」)では、「正見」とはどう見ることなのかと尋ねる迦旃延(カッチャーヤナ)に対し、釈尊は、すべてが有るというのは一つの極端論で、すべてが無いというのももう一つの極端論で、如来は中を以て説く、と答えています。

 対象を実体と捉える今の私たちの認識では、なにかが「有る」か、そうでなければ「無い」で(言葉のうえでは「兎角(とかく)」=ウサギの角のように、実際には存在しないものも表現することができるので、言葉のうえでは「有りかつ無い」「有るでもなく無いでもない」も可能)、「有る」と「無い」を極端論とする「正見」とは、空性を体験した聖者の境地と考えます。

 大乗仏教を理論的に確立したのは、古代インドのナーガールジュナ(龍樹)とされていますが、主著の『中論』で経典名を挙げて唯一引用されているのが、『迦旃延経』のこの箇所です(『中論』十五章)。

 苦しみから解放された釈尊自身の境地を、智慧によって輪廻に留まらず、慈悲によって(輪廻の対立項として目指された狭義の)涅槃にも留まらない「無住処涅槃」とする北伝の涅槃理解も、この「正見」を、有ると無いの二つを離れたものとする理解と深く関連しています(『中論』十六章、二十五章)。

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