『中論』が難解なわけ:空(くう)の教えのむつかしさ(その3)
なぜ『中論』は難解なのか
現在、オンラインでいくつかの勉強会をおこなっていますが、そのひとつ「ナーガールジュナ(龍樹)と日本の高僧たち」では、ナーガールジュナの主著とされる『中論』にはいりました。
参加されている方からは、むつかしい、という声をいただいています。
私は『中論』をわかりやすくお話しすることはできませんが、なぜそんなに『中論』はむつかしいのか、ということは、説明できると思います。
私の経験だと、ナーガールジュナ『中論』と道元禅師『正法眼蔵』は、仏教のさまざまな教えの中でも、桁違いにハードで、読む時に頭が疲れます。
それは、何かを伝えたいのではなく、こちらに考えさせることを促す、そんなテキストだからなのだと思います。
『中論』を考え続けて、本当にわかったときは、自分が仏陀になったとき、
『中論』について考えることが、仏陀への道、
そんなテキストです。
あきらめずに頑張り続ける以外に、クリアする方法はないと思います。
仏教では、師の大切さを言いますが、私個人は、海外に教えを聞きにいって教えを受ける、それは最高の喜びですが、正直、できれば師と目を合わさずに、教えだけ聞いて、そのまま帰りたい、
なぜなら、二人きりでお目にかかったら、限界まで絞られるからです。
体操選手がコーチにしごかれまくるようなものです。
だめだめな選手としては、さぼりたいし、アイスもたべたい。
でも、その搾られる感こそが仏教修行の核心、仏教の醍醐味で、それを誰に対しても味あわせてくれるのが、『中論』や『正法眼蔵』の貴重さだと思います。
釈尊も、ナーガールジュナも、道元禅師も、富士山の山頂まで導いてはくれますが、山頂へは自分の足で一歩一歩進むしかありません。それが仏教です。
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