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渋谷のスクランブル交差点を歩けば成長するかもよって話。

皆さんは渋谷のスクランブル交差点を歩いたことはあるだろうか。

歩いたことはなくても、聞いたことはあるだろう。

日本国民だけではなく、外国人にも多く認知されている。

渋谷のスクランブル交差点。

福島県に生まれ育った私も大学で関東に出た時、「ここが渋谷のスクランブル交差点か」と思った。

今この記事を書いているのは渋谷のスクランブルスクエアという場所で書いている。

まさにスクランブル交差点を見下ろして書いている。

優雅にコーヒーを飲み、ジャズを聴きながら。

ニート最強。

そんなことはさておき、都心在住、田舎出身で、スクランブル交差点を渡りまくっている私が、スクランブル交差点に隠された成長のチャンスを共有したい。

人が途絶えることのない場所

人が途絶えない。

渋谷とはそんな街である。

東京には、主要都市がある。

その中でも、渋谷、六本木、新宿はどの時間に行っても人が途絶えない。

渋谷区、港区、新宿区、東京と言われればこの3都市。

他はニッチでディープな街もあったりなかったりする。

日中はもちろん、夜中も人が途絶えない。

唯一、朝方の3−4時の渋谷は人が少ないと感じる。

それでもウロウロしている人がいる。

田舎ではありえない光景が東京では広がっている。

繁華街には、居酒屋をはじめ、BARやクラブ、キャバクラなど、夜どの時間に行っても遊べてしまう場所が多い。

外国人からすれば、TOKYOを満喫できてしまう場所。

それが主要都市である。

ココハニホンデスカ?

スクランブル交差点を歩いていると、あれ?ここ日本?という錯覚に陥ることがある。

聞こえてくる単語がほとんど日本語ではない。

冗談なしに365日外国人がいる。

それが渋谷のスクランブル交差点。

外国人の観光客が、横断歩道を渡りながら、カメラで写真、動画を撮るのが日常。

まさに、This is TOKYO。

外国の方からすれば、東京に来たぞ!となる、シンボル的なものになっている。

外国人に、日本を象徴するものと聞けば、スクランブル交差点か東京タワーの二択なのではないかと思う(比喩的表現で他にも回答出る)。

稀ではあるが、原宿を歩いていると、スクランブル交差点の行き方を教えてくれと言われることがある。

その時は渋谷の方を向いてGo!straight!の一択でOK。

そのくらい外国人にも人気な街である。

スクランブル交差点で起きた、パラダイムシフト

さて、本題に入って行こうと思う。

数年前の出来事である。

ふとスクランブル交差点を歩いているとき。

私の目の前で、ふと立ち止まり写真を撮った外国人がいた。

小さいお子さんとお母さんであろう女性。

思わずぶつかりそうになった。

舌打ちまではいかないものの、邪魔だなと思った。

イライラしている自分がいた。

こんなところで写真撮るなよとも思った。

人混みを避けながら渋谷駅に向かっているときに、ふと思った。

待てよ、あの人たちにとっては、人生で最初で最後の旅行かもしれない。

あのお母さんが何らかの病気で最後の家族旅行なのかもしれない。

小さいお子さんにとって、死ぬまで忘れない最高の瞬間なのかもしれない。

そう思った瞬間、イライラした感情が一瞬で消えたのだ。

それ以降、人とぶつかりそうになっても、どれだけ人が多くて前に進めなくても、イライラすることがなくなった。

スクランブル交差点を渡るとき、外国人はじめ、写真を撮っている人を見かけるとワクワクに近しい感情を覚えるようになったのだ。

スクランブル交差点が成長させてくれた

それ以降、全ての視点がガラッと変わった。

歩いているだけで、その人の背景まで考えるようになった。

なぜこの家族は日本という国を旅行に選んだのだろう。

日本人はどう見られているのか。

なぜ写真を撮っているのか。

無数に考えるようになった。

大きなキャリーケースはお土産用かな、この人の仕事は何だろうなど。

歩いている人が気付きの材料になった。

これまでは邪魔だとしか思わなかったものが、考え方で全く違う世界に見えたのである。

考え方で全ての行動が変わる。

私の中で、スクランブル交差点が日常を変えた。

街を歩く人だけではなく、親しき友人、仲間に対しての考え方も変わった。

これまでは、正直あまり人に興味もなかった。

特に知らない人や、はじめましての人は特に。

だが、スクランブル交差点が教えてくれた、モノの考え方、捉え方で、広角レンズにシフトした。

人と接するときも、興味を持とうと思うようになったし、これまで縁のなかったジャンルにも挑戦してみようと思うようになった。

そもそも知らないことが多い中で、これだけをやるという思考が勿体無いことだと気づいた。

野球というスポーツに20年以上も打ち込み、他の世界を知らないまま、社会人になった。

社会人になり、沢山の富裕層の方を目にしてきた。

その方々は様々なことに興味をもち、知見と教養がハイレベルであることを学んだ。

これまで閉鎖的だった自分から、新しい自分に出会えた。

起きた事象だけではなく、その背景までしっかり考えるようになった。

スクランブル交差点が日常の気付きになるとは、上京したての自分からすると考えられないことである。

正解がないからこそ楽しい

世の中、沢山の人がいる。

沢山の仕事がある。

知らない世界がほとんどである。

最近強く思うのは、知らない世界を知り、理解できるに近しい状態になった時のあの何とも言えない感情はたまらない。

知るということはまず興味から始まる。

興味を持つということは、固定観念を捨てるということでもある。

人は生まれ育った環境や、関わってきた人、経験、体験してきたことで価値観が構成されていく。

だが、過去は過去である。

私はこういう人間だと決めつけること、がどれだけ自分を狭めていることかに気付けた。

自分という人間を受け入れること、いわゆる自己受容。

自己肯定感とはまた違く、ありのままの自分を受け入れる。

そして理想の自分へと近づくために努力する。

人は決して1人では生きられない。

人生には正解もなければ不正解もない。

だからこそ、様々な価値観に触れ、自分という人間を理解し、皆で手を繋ぎ生きていくこと。

正解がないからこそ、人生は難しい。

そして楽しい。

最後は笑って死にたいと思う。

スクランブル交差点、日本を象徴するいいシンボルだ。

ありがとう。

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