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インサイトを発見されてしまった私たち―『同人女の感情』に寄せて―

 マーケティングに関する分野を学んでいると必ず「顧客のインサイトを発見しよう」という言葉を見かけます。
 インサイトとは、簡単に言えば「顕在化されていない欲求」のことです。
 有名な例だと、ライオンの『ナノックス』は、それまで洗濯洗剤で使われていた一般的な訴求ポイント「汚れを落とし白くする」から、「ニオイまで落とす」に転換したことでヒットしました。
 ユーザーは汚れの判断基準は、「目で見た白さ」ではなく「ニオイ」だった――というインサイトに気が付いた一例です。
 このインサイトを噛み砕いて言うなら「そうそう、これこれ、わかる!」
 今まで形が判然としていなかったものに名前を与えることが重要であると言います。
「美魔女」「おひとりさま」は、名前が付いたことにより「変わった人」から属性として認知されるようになりました。

 同人・創作界隈で起きた同様の現象が『同人女の感情』シリーズです。


 二次創作同人界で神文字書きとして多くの人を狂わせる天才・綾城さん。
 そんな綾城さんに憧れ、作品の腕を上げることで認められようと必死になる秀才文字書き・七瀬&友川。
 そしてトレンド入りまで果たした存在――天才である綾城さんとごく親し気に会話をし、七瀬や友川を始め多くのファンの妬み嫉みを集めるおけけパワー中島。

 真田さんの生み出した、同人活動を行う彼女たちの強感情を描いたこの作品は、まさに「そうそう、これこれ、わかる!」と創作者・読み手の共感を呼び、多くの議論が繰り広げられました。
 これはまさにインサイトマーケティング的に大当たりだったと言えます。
 私たちは「インサイトを発見」されてしまったのです。
(※同人界隈をこうした商業的なワードを持って語ることは、特に二次創作で活動している人も多い界隈特性上、注意すべきことであることは承知しています。あくまで考え方・起きた現象として合致しているのではないかという個人の見解です)

 このシリーズが大変興味深く、多くの人の注目を集める魅力のある作品であることは事実ですが、その影響力の大きさゆえに、この作品の読み手および同人活動の当事者として注意をしていきたいと考えたことがあったので以下に記します。
 作品を批判する意図ではなく、読み手側としての心構え――あくまで個人の備忘録としてお考えください。


■名前を与えられるということ

「名前のなかったものに名前が付く」ということの意味については、京極夏彦先生の名著『地獄の楽しみ方 17歳の特別教室』を読んでいただければ何よりもよくわかると思うので、詳しく知りたい方は是非こちらを読んでください。

 簡単に言えば、「夜」と名前が付くことにより私たちは陽が落ちて暗くなった状態のことを「夜」だと認識できるのです。「夜」という名前がなければ、それはただの暗い時間帯であり、朝も昼も夕もありません。清少納言が「春はあけぼの」と多彩に記すことが出来たのも、言葉があり名前があったからでしょう。

 つまり名前が与えられることにより私たちは無かったものを認知できるようになり、世界の解像度を上げることが出来ます。
 基本的には素晴らしいことのように思えますが、一方で気を付けなければならない面もあると私は考えます。

 先に例に挙げた「美魔女」や「おひとりさま」
 この名前が付けられたことで「変わり者」ではなくなり、生きやすくなったという方もいるでしょう。一方で、好きに振る舞っていただけのことが定義され、名前という枠で認知されることを窮屈に感じる人もいるかもしれません。
 私たちが「朝」と「夜」を呼び分けることは区別する、ということなのです。区別は、「この人は違う」という他者への認識と共に「私はこうである」という縛りにもなり得ます。
 それはこの『同人女の感情』シリーズの与えた影響についても同じことが言えるでしょう。


■私たちは『同人女の感情』の登場人物ではない

『同人女の感情』シリーズが広まった時、共感した同人者たちは口々に、「自分は誰に似ているか」を語り始めました。自己投影し考えさせられるこの作品は、話のネタとしても面白く、私自身ツイッターで出会った友人たちとの会合の中で「私、おけパだわw」などと盛り上がっていました。
 多くの方はあくまで話題として、たとえばananの占いくらいの共感と話題性の面白さを持って口にしていたと思います。ただ一方で私自身は、現実的に引っ張られる――区分されたことによる縛りを自らに与えそうになる瞬間があったことも事実でした。
 そうした瞬間の中で、特に気を付けようと思ったことを2点、記します。

①自分の言葉で語ることを忘れない
「エモい」という言葉が出始めた頃、個人的に抱いていた危機感と似ていました。
 便利ですよね、「エモい」って。これだけで何を指しているのか、なんとなくわかりますし。定義が広い分、あなたのエモいと私のエモいが多少ズレていても同じものを指して「エモいよね!」「エモい!」と分かり合える。便利な共通言語です。
 一方で、ここに集約されることで取り零されたものも多くあります。
「この花火の写真は、あと数秒後には消える火を見て笑う人たちの、その数秒間だけを切り取った刹那性が、〝必ず失われること〟を示唆しており美しいと同時に寂しさを感じる」とか、言葉を尽くしてこそ伝わる情景を「エモい」に集約してしまうのは少々勿体ない気もします。
 自分の心が何に対して動き、どう考えて変化し、何が残ったのか。そのフローを手に取り触りながら自己認識を高めていくことは、創作のみならず〝自分〟というものの特性を知り好ましい方向にコントロールしていく上で重要なことです。
 同人活動に伴う情緒についても「私は七瀬だ、おけパだ、その複合型だ」に収めてしまっては、取り零すものがあるのではないかと私は考えました。

②エンタメ化に自覚的であること
『同人女の感情』シリーズはインサイトを的確に突いた素晴らしいエンタメ作品です。ただ、当たり前のことですが「現実と混合しない」ことは重要だと思います。
 これは、とても難しいことです。だって現実の私たちの感情を巧みに作品として昇華してくれているんですもの。私の感情を、苦しみを、言葉を、代弁してくれた。そう思わせられることは創作物としての紛れもない力と魅力です。私たちはいつだって、そんな創作物に救われます。
 ただし、それは昇華されたことによって救われるべきであり「現実の行動として肯定された」かどうかはまた別の話です。たとえば友川は、その想いを拗らせるあまり綾城さんに「もうA×Bは書かないんですか!?」と綾城さんの自由意思であるはずの創作に対して口出しをしかけます。(なけなしの理性で留まりましたが……えらい……)
 本作を、こうした行為のストッパーを外す理由にしてはならないと思います。
 エンタメに昇華されたことで感情が救われるのも事実。自分の感情をエンタメに当てはめて溜飲が下がることもあるでしょう。でも私たちはエンタメ化に自覚的であるべきなのではないでしょうか。


■この記事を書くにあたって

 以上はすべて私自身の備忘録ですが、まとめようと考えたことには理由があります。

 先日私のもとに1通の匿名マシュマロが届きました。内容としては以下の通り。

・私に憧れて二次創作を始めた
・好きが高じて憎らしくなった
・自作が評価されない間に私の作品が評価されており、嫉妬した
・私が他の方へのマシュマロの返事で「私も他者に嫉妬します」と答えているのを見て、それを公言出来てしまうことも妬ましかった


 正直、私は何者でもありません。ピクシブのランキング常連でもないし壁サークルでもない。万年島中の少部数ピコサーであり、上手くなりたいという思いの中で試行錯誤はしているものの、現時点で何者でもないんです。
 だから真面目に受け取るよりも先に、思ってしまったんですよね。
「まるで『同人女の感情』シリーズのようだな」と。
 そう受け止めてしまってから、私は自分に今マシュマロが来たという状況と感情について、「自分の言葉で語らず」「エンタメ化しようとしていた」ということに気が付き、危機感を覚えました。
 もしかしたらマシュマロ主さんも私と同様の感覚を持っていたのかもしれません。ありていに言えば「エンタメ化して酔っていたのではないのか」と思いました。ただ、私自身もあのシリーズに深く共感できるほど、〝本物の感情〟は持っています。だからマ主さんの想いを「酔っているだけの気のせいだ」で片付けるには忍びなく、また、そうではないことを知っていました。
 ただし、「インサイトを発見されてしまった私たち」は気を付けなければ自分もエンタメ化に呑まれてしまう。
 そのため、マシュマロへのお返事をする前に自戒としてこの記事を書きました。

 私たちの嫉妬や愛情や楽しさや苦しさが、私たち自身のものとして、糧になっていきますように。

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