井坂洋子「猫的人生」を読む
猫的人生 井坂洋子
一年中 ばかになったドアが
あいている
舌でくみあげて
皿のミルクを少しずつおくりこむ
それから
ピーナッツの殻をはじいて
窓から捨て
窓へとつたう
蟻たちの夕方の集金を眺めた
誰も帰ってこないから
首と腕と足が伸びて
だらんと籐椅子にかかっている
この時間も
次の行為に飲みこまれる
ドアもなく
ばらばらに成人してしまうすっぱさ
呼びにきてよ
と日記を書く
うちの三角屋根を影にして
もうじきやってくると思う
猫は
猫的人生をまたぎこし
火にくべていぶす
ニンゲンの日記の
煙より高いところを渡ってくる
この詩の中の、「猫は/猫的人生をまたぎこし/火にくべていぶす/ニンゲンの日記の/煙より高いところを渡ってくる」という部分は、明らかに猫について記した箇所であると分かります。しかし、その手前の、「舌でくみあげて/皿のミルクを少しずつおくりこむ」とか、「呼びにきてよ/と日記を書く」などの行為の主(同じ行為者であると考えられます)は、人間なのか猫なのか、どちらでしょうか。
私は、この行為者は、皿のミルクを舌を使って飲んではいるけれど、紛れもなく人間であると考えます。猫の真似をしている一人の人間、というのがこの詩の題材です。また、この人物は、近所の猫が自分を訪ねてくるのを心待ちにしていて、猫に対して「呼びにきてよ」と日記の中で呼びかけてもいます。この人物は、おそらく猫と恋仲になりたいと考えているのでしょう。そう考えるくらい、この人は猫になりきろうとしているのです(ここで、この人物が、作品の語り手であることを指摘しておきます)。
では、この語り手は、猫に憧れ、尊敬の念を抱いているのでしょうか。私は、それは違うと思います。この人物は、むしろ猫をうっすらと見下していて、「自分は猫ぐらいにしかなれない」と自嘲気味に考えています。その「猫」という概念の反対に位置するのが、「人」という概念です。これは、世の中で流通している人間観ですが、実は架空のものであることが指摘できます。
例を挙げて考えてみましょう。例えば、作中に「ドアもなく/ばらばらに成人してしまうすっぱさ」という二行があります。「成人する」ということが何を指しているのか、直接的には書かれていませんが、私は性的な体験をする、ということを指していると捉えました。確かに、人間が初めて性体験をするタイミングは、それぞればらばらであり、それは猫と同じです。しかし、人間は、18歳を迎える、もしくは成人式に出席するタイミングで「成人する」のだという考え方もあります。これは、言い換えれば、人が成人する瞬間は画一的であるという捉え方です。しかし、18歳になったり成人式に出たりしても、人間は特に変化しません。だから、これらはただの儀式であり、「ある瞬間を迎えると人は成人する」という考え方は、ある意味では架空のものであると言えます。
このように、人間は、「人はある瞬間を迎えて大人になるのだ」などの、架空とも言える人間観の型の中に、自分を押し込めることで何とか生きています。でも、架空の人間観と、実際の人間の間には、やはりズレがあるので、人間は皆、自分はれっきとした「人」にはなれないのだ、と考えて葛藤しています。そのように、れっきとした「人」にはなれない動物—すなわち“人間”—の生がこの詩のテーマです。そして、そのことを自覚しているがゆえに、「自分はどうせ猫だ」と考える語り手の生き方が、「猫的人生」なのです。
さて、ここからは、作品の細部について見ていきましょう。
「一年中 ばかになったドアが/あいている」の「ドア」は実物のドアですが、これは明らかに「ドアもなく/ばらばらに成人してしまうすっぱさ」の比喩的な「ドア」に掛かっています。その前の箇所の、「この時間も/次の行為に飲みこまれる」から、語り手は、何かしらの行為とその次の行為の間に明確な区分(「ドア」)がなく、一つの行動がそのまま次の行動に繋がっていってしまうことを嘆いています。これが、具体的に何を指しているのかは分かりませんが、れっきとした「人」の人生なら、行為と行為の間に区分がちゃんとあるはずだ、という主張が窺えます。要するにここでは、行為と行為の間の区分は、れっきとした「人」ならばちゃんと備わっているはずのものであり、我々人間には実はそれがないのだと言っているわけです。この考えの延長上に、先程の成人にまつわる主張があるのでしょう。
「蟻たちの夕方の集金」とは、蟻が夕方に餌を探すことを指しているのでしょう。ピーナッツの殻をはじいて窓から捨てること、窓へとつたう蟻たちを眺めること、だらんと籐椅子にもたれること、どれも人間の行為と猫の行為が半々に混ざったような行動で、つまりは中途半端な「猫の真似」であることが分かります。
「うちの三角屋根を影にして/もうじきやってくると思う」についてですが、屋根を影にして来るのは、高いところを伝って来る猫くらいなので、ここで語り手が待っているのは人間ではなく猫です。すると、「呼びにきてよ」という日記の文章も、猫に対しての期待であると言えます。
さて、「猫的人生をまたぎこし/火にくべていぶす/ニンゲンの日記の/煙より高いところを渡ってくる」とは、「人生」を実際にまたぐことはできないので、ここでは比喩的な意味で「またぎこし」ているのだと推測できます。語り手はうっすらと猫を見下していると述べましたが、そのような、程度が軽いとは言えど確かな侮蔑の念である感情を、それを抱いている人の人生ごとまたいでいるわけです。またぐという行動は、礼を失した行為でもあり、またそれを乗り越えてその先へ向かう、というニュアンスも持っているため、猫は自分を見下している人間のことなど意に介さずに、先へ進んで行く、という感じでしょうか。
それをより強調するのが次の三行、「火にくべていぶす/ニンゲンの日記の/煙より高いところを渡ってくる」です。語り手は、日記を燃やしてしまったようで、この事実は、猫に対して「呼びにきてよ」と綴ったのが自分で恥ずかしくなった、などの事柄を表しています。語り手の、「自分は猫程度の存在なのだ」という自虐に基づく、「猫に恋でもしてみるか」という試みは、けれど真剣なものではなく、長くは続かなかったようです。ともあれ、猫は、その日記を燃やしている火の煙よりも高いところを渡ってくるのです。これも、猫は「自分は猫だ」とうそぶく人間よりも、比喩的な意味で、高い位置にいることを表しているのでしょう。
以上より、この詩のオチは、自分の人生は「猫的人生」であると認識している語り手よりも、猫は高尚な存在だった、という内容になっていると言えます。しかし、この詩の核となっているのは、我々は皆、れっきとした「人」にはなれないのだ、という主張であると、私は考えます。