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山崎るり子「一日」について —人間の手から離れた台所—

           一日 山崎るり子

  疲れの重さたばねて
       けい光灯の紐を引けば
    出かけた時のそのままが
  照らし出されるよ台所

  窓の外の
  まだ暮れ残る空を
  西に向かう夜行列車
  ハモニカの窓に明かり灯して

  おーい おーい
  行くのか
  新しい街に行くのか
  この窓の明かりも
  最後の窓につなげてほしい
  このままここに
  置きざりにしないで

  地球半分の
  本物の闇をくぐり抜けて
  明日の朝また
  ここに着くよ台所

 

 今回は、この「一日」という詩の解釈を綴りたいと思います。まず、第一連から見ていきましょう。

  疲れの重さたばねて
  けい光灯の紐を引けば
  出かけた時のそのままが
  照らし出されるよ台所

 これは、夕方、仕事から帰ってきた一人暮らしの女性が、台所のけい光灯を点けるという場面です。なぜ仕事から帰ってきたと分かるのかというと、「疲れの重さたばねて」とあるからです。この「疲れの重さ」という表現には、生活を背負っている人の辛苦が滲み出ており、彼女が単にちょっとした用事で出かけたのではないことが窺えます。また、この第一連の中の、「出かけた時のそのまま」という表現に注意しておいてほしいです。
   次に、第二連から第三連について、見てみましょう。

  窓の外の
  まだ暮れ残る空を
  西に向かう夜行列車
  ハモニカの窓に明かり灯して

  おーい おーい
  行くのか
  新しい街に行くのか
  この窓の明かりも
  最後の窓につなげてほしい
  このままここに
  置きざりにしないで

 「このままここに/置きざりにしないで」の「ここ」について、私は、前に使ったまま残されている台所の状態であると解釈しました。先程、私が「注意しておいてほしい」と言った、「出かけた時のそのまま」の状態という表現が、ここに繋がっていることが分かります。つまり、この女性は、<生活>というものが延々と続くことにうんざりしているのであり、<生活>の繰り返しを象徴しているのが、前に使った状態のまま残されている台所、というわけです。台所に立つ度に、逃げ場なく追われてしまうという事実によって、女性という存在は<生活>から逃れることができないという宿命が象徴的に表現されているのです。
 ちなみに、「ハモニカの窓」とは、夜行列車の窓が楽器のハーモニカのように並んでいる様を表しています。その並んでいる窓の明かりの最後に台所の明かりも加えてほしいとこの女性は言っているのです。そこには、自分をこの<生活>から連れ出して、救ってほしいという願いが込められています。
 このように、この女性は、台所を、<生活>の場としてしか認識していません。しかし、実は台所というものは、人間から離れた存在として在るための時間も持っているのです。第四連を見てみましょう。

  地球半分の
  本物の闇をくぐり抜けて
  明日の朝また
  ここに着くよ台所

 女性は、夜には台所を使っていません。その間に、台所は、地球の自転に乗って、半回転しているのです。女性の見ていない間に、台所は人間の生活から離れているのです。だから、本当は、台所は「前回使ったままの状態」で存在しているわけではありません。その間に、闇の中をくぐり抜けているからです。そして、朝が来ると、また女性がそこを<生活>の場として使用するのです。そのことを、この詩は「また/ここに着くよ台所」と表しています。「ここ」とは、女性の<生活>のことです。
 以上を纏めると、この詩は、次のようなことを表していると言えます。
 台所に立つ女性は、毎回、前に台所を使った時の続きから始めなければならないことに、半ばうんざりしています。それは、彼女が、<生活>の無限の繰り返しに倦み、疲れていることを示しています。しかし、彼女の与り知らないところで、実は台所は人間の<生活>から離れる時間を持っています。台所はその時間に何をしているかというと、地球の自転と共に旅をしているのです。ここで、作者は、人間には人間の営みがあるけれど、台所には台所の営みがある、という事実を見出しています。人間のコントロールからこぼれ落ちたところに台所の営みを発見しているという点。そこに、この詩の面白さはあります。
 この作品は台所という題材を扱っていて、一見他愛ないようですが、人間の<生活>とは離れたところで(しかし全く無縁というわけではありません)台所の存在を規定しているという点において、斬新な作品であると言えるでしょう。

 

 


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