井坂洋子「幼獣」を読む

  幼獣 井坂洋子

 庭の犬わらびの葉に蝶がとまる

 クマリン系殺鼠剤を食べ
 目が見えなくなった子ネズミを飼う

 細い針がねのわっかのようなもので
 ひゅっと首を締められ
 連れ去られた子犬を飼う

 ダンボールごと
 清掃車の
 回転する歯車に投げられ
 瞬間につぶれた子猫を飼う

 灰色の空のもとで
 月日はばかみたいに繰り返し
 特別天然記念物の幼獣らが
 公園であそんでいる

 昼寝の 悪夢の
 うめき声こそふさわしい午後二時二五分
 根が土塊をしっかりつかむ犬わらびの
 首をひきぬいていると
 あらくさの生白い繊毛の上へ
 死に残った獣たちは
 下肢をふるわせながら放尿しはじめる
 その、しぶき

 昔 飼っていた幼獣の一匹が
 一歳七ヶ月になった時
 遠く 川べりまで出かけていった
 幼獣は
 おむつから伸びた肢をふんばり
 川づらに向き合って
 立っていたが
 堪えきれずに尻もちをついたと同時に
 「かは」
 と言った
 両手についた黒い泥土をこすり
 「ち」
 とも言ったがあれは
 バッチイという意味だったかもしれない
  川
   と
    地

 夜の日記にはこう記した
 「7月10日(日)
 娘は眠っている。
 今日、はじめて、谷津の川に連れていったのだ。
 かは、という二音を発音した時、
 私は川がもっと早く流れていればいいと思い、川の光の
 斑点が挑発するように踊っていればよいと思った。」
 それはそんなに感激すべきことだったのか

 川が今どうなのかは知らない
 地はタールに塗りこめられ
 どすぐろく
 耐えている
 垣根をひとつ越えた舗道をのがれ
 庭先から縁側にまで
 這いあがってくる尻の赤い小蟻の行列

 死に残った者たちの
 あったかい尿が
 細い川となって黒土の上を流れる
 しぶきがシャツの袖口や胸にも飛び
 家の中の
 畳や床、柱にもついていて
 立ちのぼるにおいの中に私は坐る
 尿の味のする
 いなりずしを食べる
 バッチイなんてものではないのだ
 そんな言葉を ヒトの幼獣に
 むかし 誤って教えたのだと思う
 言葉などすべて覚えなければよかった
 バッチイものなど
 獣の周辺にはない

 毛の毬が心地よい居場所を求めて
 かさなりあう
 目の見えなくなった子ネズミ
 連れ去られた子犬
 瞬間につぶれた子猫
 が乳頭の感触をもとめ
 寝そべった私の顔中をだえきで濡らして
 吸いついてくる


 私は、この詩について、人間の操る言葉というものの害悪について語っている作品だと考える。そう考える理由を、以下に説明したい。そのために、まずは作品冒頭近くの箇所を引用する。

 クマリン系殺鼠剤を食べ
 目が見えなくなった子ネズミを飼う

 細い針がねのわっかのようなもので
 ひゅっと首を締められ
 連れ去られた子犬を飼う

 ダンボールごと
 清掃車の
 回転する歯車に投げられ
 瞬間につぶれた子猫を飼う

 灰色の空のもとで
 月日はばかみたいに繰り返し
 特別天然記念物の幼獣らが
 公園であそんでいる

 まず、この中の、「特別天然記念物の幼獣らが/公園であそんでいる」が、一体何を指しているのか考えたい。「公園であそんでいる」この「幼獣」(幼い獣の意か)は、「ヒト」の幼獣、つまり人間の子供であると推測される。なぜ、人間の子供は、「特別天然記念物」なのか? それについて考えるために、「特別天然記念物」について改めてその定義を調べてみると、「天然記念物のうち、世界的にまた国家的に価値が特に高いとして、文化財保護法により指定されたもの」となっている。つまり、人々が意識してそれを守ろうとする存在であると言うことができる。 
 そして、この「特別天然記念物」である人間の子供と対比されている存在が、作中には登場する。それが、「クマリン系殺鼠剤を食べ/目が見えなくなった子ネズミ」や、「細い針がねのわっかのようなもので/ひゅっと首を締められ/連れ去られた子犬」、そして「ダンボールごと/清掃車の/回転する歯車に投げられ/瞬間につぶれた子猫」である。これらの幼獣たちに対する扱いは、人々によって大切に保護されているヒトの幼獣へのそれとは大違いで、無惨なものとなっている。なぜ、これらの幼獣は、非道な扱いを受けなければならないのだろうか。それは、言葉が、我々人間に、「これはひどく扱っても良いのだ」と教えるからではないだろうか。言葉は、「これは見捨ててはいけない存在だが、これは見捨てられても良い存在だ」などと、あらゆるものを裁いているのである。要するに我々の、ものに対する認識の仕方が、あらゆるものの生死を決定しているのだが、それは言葉が決定しているのと同じことだろう。作中では「バッチイ」という言葉が、言葉がものを裁いている例として登場している。しかも、そのようにものを裁く言葉というものは、人間の間で代々受け継がれるのだ。その事実が、「そんな言葉を ヒトの幼獣に/むかし 誤って教えたのだと思う/言葉などすべて覚えなければよかった」という三行に顕われている(「ヒトの幼獣」というのは、この場合、語り手の娘を指している)。 
 このように、この詩は、言葉というものによって、あらゆるものの存在は裁かれてしまうのだという事実について語る作品である。その裁きによって「これは見捨てても良い」と決定されたものとして、作中で挙げられているのは、「クマリン系殺鼠剤を食べ/目が見えなくなった子ネズミ」や、「細い針がねのわっかのようなもので/ひゅっと首を締められ/連れ去られた子犬」や、「ダンボールごと/清掃車の/回転する歯車に投げられ/瞬間につぶれた子猫」。それから、タールに塗りこめられた「地」、そのような地面から追い出され、居場所を求めて庭先から縁側まで這いあがってくる「小蟻」、そして語り手が“雑草”として引っこ抜く「犬わらび」である。この作品は、これらの見捨てられた生物たちの存在を、掬い上げようと試みている。
 その試みについて、具体的に見ていこう。この作品中に登場する事柄は、現実に起きている出来事と、想像上の出来事に分類される。作中では、現実の世界と架空の世界の二つの世界が登場するのである。したがって、まず、現実の世界について見てみることにする。
 作中には「死に残った獣たち」というフレーズがある。「死に残った」というのは、作者独自の表現だが、これは生きている獣を指している。なぜなら、「死に残った者たちの/あったかい尿が」という表現の中に、尿が「あったかい」とあるからだ。これによって、この獣たちは生きているのだと分かる。つまり、「死に残る」とは、死なないで(かろうじて言葉に見捨てられないで)生きていることを指しているのである。ここから、この「死に残った獣たち」は、おそらく語り手の飼い犬か何かで、語り手が庭で犬わらびを引き抜く傍ら、飼い犬たちがそこで放尿している場面が描かれているのだと分かる。
 さて、この飼い犬たちが生きていることから、この庭の場面は現実であることが指摘できる。しかし、作中には、「昼寝の 悪夢の/うめき声こそふさわしい」という記述もある。これは、最後の連の「寝そべった私の顔中をだえきで濡らして/吸いついてくる」と対応している。だから、最後の連で、語り手は、昼寝をして悪夢にうなされているようにも思える。だが、「昼寝の 悪夢の/うめき声こそふさわしい」と言っている(「ふさわしい」に注目してほしい)ため、実際には作者は悪夢を見て、うめき声を上げているわけではないのである。だから、ここで、現実の世界と、「本当はこうあるべきだ」という事象を体現した架空の世界の、二つの世界が現出していると言える。
 現実の世界では、語り手が犬わらびをひきぬくそばで、飼い犬たちは放尿している。しかし、作者は、言葉から見捨てられた獣たちのことを思っているため、本当は、同じ時間に、自分は寝そべっていて、そこに不幸な子ネズミや子犬や子猫が、乳頭を探って顔に吸い付いてくるはずである、と考えているわけである。
 ここで、作品冒頭をもう一度見てみよう。

 庭の犬わらびの葉に蝶がとまる

 クマリン系殺鼠剤を食べ
 目が見えなくなった子ネズミを飼う

 細い針がねのわっかのようなもので
 ひゅっと首を締められ
 連れ去られた子犬を飼う

 ダンボールごと
 清掃車の
 回転する歯車に投げられ
 瞬間につぶれた子猫を飼う

 この箇所について、私はこれは架空の世界で繰り広げられている出来事であると考える。なぜなら、「犬わらび」は現実には、語り手によって引き抜かれてしまうからだ。また、もちろん、子ネズミが目が見えなくなるのも、子犬が連れ去られるのも、子猫がつぶされるのも、全て現実の出来事である。しかし、それらを語り手が「飼う」というのは、現実と並行して存在する世界の中の出来事、つまり私の言う「架空の世界」での出来事である。つまり、今引用した冒頭の四連の内容は、作品の一番最後の連の内容と同じなのである。
 そして、ここで、

 灰色の空のもとで
 月日はばかみたいに繰り返し
 特別天然記念物の幼獣らが
 公園であそんでいる

 という箇所に注目したい。この四行は、全て現実の出来事である。「月日はばかみたいに繰り返し」というのは、現実の世界から架空の世界へと飛ぶことはない、言い換えれば、質的に世界の在りようが変わることはない、ということを表している。つまり、架空の世界はあくまでも想像上の世界としてしか存在しない、したがって、言葉によって切り捨てられた生き物たちは、決して救われることがない、ということである。
 さて、作品の大筋については概ね論じ終わったので、ここからは、作品の細部に注目したい。
 まず、語り手の娘にまつわるエピソードは、「言葉は実は残酷なものなので、それが人間の間で代々受け継がれることは、必ずしも無邪気に喜ぶべきことではない」ということを表している(「それはそんなに感激すべきことだったのか」からそれが分かる)。
 また、娘にまつわるエピソードには、後から飼い犬たちの尿を谷津の「川」に喩え、庭の黒土を谷津の「地」に喩えることで、尿は「バッチイ」わけではない、「バッチイ」ものは獣の周辺にはない、ということを示すという役割もある。さらに、

 川

  と

   地

 という独特な表記の仕方についてだが、これは「川と地」という言葉を強調するための手法である。なぜ強調するのかというと、作中に記されるのが娘の「かは」と「ち」という発言だけだと、「ち」は「バッチイ」を表しているため、谷津の「地」と庭の黒土をリンクさせるのが難しくなってしまうからだ。
 次に、「地はタールに塗りこめられ/どすぐろく/耐えている」についてだが、この「どすぐろく」は、実際の黒い色を表しているというより、次の「耐えている」に掛かっていて、「どすぐろい怒り」というようなニュアンスを持っている。「地」が怒りをたぎらせながら、タールで塞がれるという屈辱に耐えるというような意味で、ここでは擬人法が用いられている。
 さらに、「バッチイものなど/獣の周辺にはない」とあるが、では本当に「バッチイもの」とは何なのか。語り手が何を想定しているのか言い当てることはこの場合難しいが、例えば獣たちにとって害のある化学物質などではないだろうか。語り手はこの詩を通じて言葉の害を主張しているが、ここの「バッチイもの」とは、言葉そのものを指すのではなく、何かしらの人工物を指しているのだろう。人間は、獣の尿を「バッチイ」と嫌うが、実際は人間が利用している人工物の方が、獣たち全体にとってははるかに害が大きいに違いない。——そのような主張が窺える。
 これで、細部までこの作品を解釈することができた。以上より、この作品は、世の中には言葉によってその存在を切り捨てられてしまう生き物がたくさんいる、と主張することを通じて、言葉の害悪を指摘する詩であると言える。

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