搾取される者の<痛み> —小池昌代の詩「鳩」について—
今回は、詩人・小池昌代の詩「鳩」について見ていきます。
鳩 小池昌代
脳専門の森山病院の近くに
小さな公園がある
昼近く
中年の男がやってくる
ベンチに座る
おもむろにポケットから、餌をとりだし
てのひらにまく
一羽、二羽と鳩が集まりだす
肩、頭、わき腹、足くび、足のもも
あらゆるところに鳩がとまって
彼の姿は見えない
正午の風葬
この公園で
いつか
ぶあつい毛皮を着た女が
子分のような浮浪者をどなりつけていたのを見たことがある
やがて
食べつくされ、むさぼられて
鳩だらけの男がすっとたちあがると
いっせいに飛び立つ鳩の群れ
翼の音に
胸のあたりの
不用意な高さまで
感情が
つりあげられ
下降できずにざわついている
あらゆるものが
中途半端な高さで耐える午後
世界は生き物の、かみくずのような悲鳴で一杯だ
くらい広場を
濡れた髪の子供が横切っていく
たれ下がった身重の空が広がり
鳩はもう一羽もいないのに
男のセーターに
失われた鳩の巣の匂いが満ちてくる
この詩の舞台は、一つの「小さな公園」です。「公園」というと、子供達が遊ぶ、楽しげな場所をイメージするかもしれません。しかし、この詩の公園は、脳病院(精神病院のこと)の近くにあるため、明るいイメージを伴わず、むしろどこか陰気な、普通の人には近寄りがたい、そうした場所に造られた公園なのだと分かります。
その公園で、一人の中年男性が、昼近くになると鳩に餌をやりにやって来るのだそうです。作品は、餌に寄ってきた鳩たちによって、男性が全身覆われてしまう場面を描写しています。この「男性が全身、鳩まみれになる」という事柄自体は、何の変哲もない、平和とも言える光景です。ですが、ここで語り手は、この事柄について独特な見方をします。なんと、語り手は、男性に鳩がむらがっている様子を、「風葬」に喩えているのです。「風葬」というのは、死体を地中に埋めずにさらしておく葬法を指します。この時、鳥が寄ってきて、死体を啄むという事態になるそうです。したがって、この詩では、鳩まみれになった男性の姿を、鳥にその肉を食い荒らされる死体に喩えているのです。
一体、語り手はなぜ、男性が鳩に餌をやるという穏やかなはずの光景を、よりによって「風葬」に喩えたのでしょうか。その意図は、第二連、第三連を見ると明らかになります。
この公園で
いつか
ぶあつい毛皮を着た女が
子分のような浮浪者をどなりつけていたのを見たことがある
これが第二連です。第一連で、男性と鳩についての描写が展開されていたのに対し、ここではいきなり「女」と「浮浪者」が登場していることに、戸惑うかもしれません。しかし、ここに、鳩に餌をやるのとは違うエピソードが挿入されているわけは、第三連を見ると明らかになります。
やがて
食べつくされ、むさぼられて
鳩だらけの男がすっとたちあがると
いっせいに飛び立つ鳩の群れ
この第三連の内、「食べつくされ、むさぼられて」という表現に注目して下さい。この表現から読み取れるのは、男性が鳩まみれになっているところを「風葬」に喩えている、という事柄のみではありません。さらに、次のようなストーリーを読み取ることができます。
すなわち、「ぶあつい毛皮を着た女」が、その「子分のような」、浮浪者を怒鳴りつけているという場面を見た語り手は、「人間同士の関係性というものは、全て、搾取する者・される者の関係に還元される」と考えるようになった。そのような考えを手にした語り手は、穏やかな日常を表しているはずの、「餌をやる人間に鳩がむらがる」という光景を見てさえ、それをまるで鳩が人間を「むさぼ(る)」「風葬」のようだと考えるようになってしまった。——このようなストーリーです(「ぶあつい毛皮を着た女」は、財力を握っていると考えられますが、浮浪者を相手にしていることから上流階級の人間ではないと言えます。いずれにせよ、ここで重要なのは、この「女」が「浮浪者」を痛めつけ、搾取しているという事実です)。
もちろん、鳩が男性にむらがるという光景自体は、本当は暗さを含むものではありません。鳩と男性の関係性は、実際には、「搾取する者・される者」の関係性ではないからです。しかし、語り手がこの光景を「風葬」と捉えることは、搾取される側の苦しみを、語り手が痛切に感じ取るようになったということを、象徴的に表しているのです。つまり、「風葬」のモチーフにおける、何かが何かを「食べつく(し)」、「むさぼ(る)」というイメージは、この詩において、文字通り「食べる」という意味から、「搾取する」という比喩的な意味へとジャンプしています。
そして、今述べた、搾取される側の苦しみこそが、この詩のテーマなのです。そのような痛みは、もしかすると、搾取される人間自身も、自分では把握していない感情であるかもしれません。しかし、そのような人間の魂の奥底にあるきしみを、この詩は掬い取っていると言えます。
翼の音に
胸のあたりの
不用意な高さまで
感情が
つりあげられ
下降できずにざわついている
あらゆるものが
中途半端な高さで耐える午後
世界は生き物の、かみくずのような悲鳴で一杯だ
この第四連の内、「世界は生き物の、かみくずのような悲鳴で一杯だ」という表現に注目して下さい。ここで、「かみくずのような悲鳴」を上げ、魂をきしませる存在として言及されているのは、人間に留まりません。「生き物」とあるため、動物や植物もそこに含まれるのだと分かります。
くらい広場を
濡れた髪の子供が横切っていく
たれ下がった身重の空が広がり
鳩はもう一羽もいないのに
男のセーターに
失われた鳩の巣の匂いが満ちてくる
「鳩はもう一羽もいないのに/男のセーターに/失われた鳩の巣の匂いが満ちてくる」。この「失われた鳩の巣の匂い」とは、一体何でしょうか。直接的には、既に飛び去ってしまったはずの鳩の「巣の匂い」であると理解できます。しかしこれは、搾取される者の、誰にも気づかれないで葬り去られた心の「痛み」を象徴していると考えられます。なぜなら、鳩はいないのに「鳩の巣の匂い」がセーターに満ちてくる、という不思議とな現象は、目には見えないけれども浮かび上がってくる、搾取される者の「痛み」というものの存在と、リンクしているからです。
このように、この詩は、この世のあらゆる命が「搾取される存在」として生きていること、そのような命は皆、「痛み」を抱えていることを指摘する作品でした。「濡れた髪の子供」、「たれ下がった身重の空」など、やや暗めのトーンで揃えられた道具立てが、作品の陰鬱な雰囲気を支えています。
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