再び、三人家族
そういえばこのnoteを始めたのは、どこかに吐き出さないともう辛くて苦しくてっていう状況と、どこかの誰かが同じ状況に陥っていたら、あなたも私も頑張ろうねっていう気持ちと、そんなのがきっかけだった気がする。
人生初めての介護に、驚き、慄き、疲れて、怯えていました。
変化を嫌うというか苦手とする家族で、今まで通りでいいじゃない?が無意識のうちに共通認識になっていたような家族で、だから刻一刻と変わる状況が怖かった、ついて行けなくて、泣いたし辛かったしどうしていいかわからなかった。
そんな風に、全部を過去形で書く日が来ました。
先月、父が亡くなりました。
お骨になって、遺影とともに、家に帰ってきました。だから、再び、三人家族。
覚悟をしていなかったわけじゃない。難病の診断を受けた数年前から、突然死があり得る病ですと宣告されていた。医師からのアドバイスもあって、残された家族で話し合っていざという時には延命措置はしないと決めていた。
「いつか」来ると思っていたことが、「今」来ただけなのだと、病院から呼び出された時はただそれだけを考えてた。祖父母の時にも経験していたあの感覚、信じられないけど事実はただ目の前に横たわるあの感覚、あれがまたやって来た。
うちの家族、病室や葬儀で泣き崩れるとか、そういうこと全然なくて、ふとした時にぼろぼろっと涙が出たりはするけど、やることやらなきゃ、葬儀の準備しなきゃ、あちこちに連絡しなきゃ、とか、そういうの淡々とこなしてしまう。冷たいのかなーと思うこともあるけど、お父さんの最期をしっかり見届けなきゃ見送らなきゃ、急な連絡にも関わらず平日にも関わらず集まってくれた親戚一同にちゃんと対応しなきゃって、それを成し遂げることがちゃんとお父さんの娘としてここまで育ちましたって示せることのような気がした。
だって今までずっとそういう日々だった。父の身体機能が衰えて、精神的にも荒れることが多くなって、お母さんと二人でどうしようっておろおろしながら、でも決めなきゃいけない、判断しなきゃいけない、って、そういう日々だった。葬儀の手配なんてまじ分からないことだらけだったけど、それでもやらなきゃいけなかったから、やったよ。
30代のうちに、女の身で喪主を務めることになる人生とは思っていませんでした。母も兄もいるのにお前が喪主?って親戚にも上司にも言われたけど、仕方ないだろう、他にできる人間がいなかったんだから。男だからとか女だからとかでがたがた言ってる場合じゃなかったんだ。
喪主の経験も、あれはあれで貴重だったのでちょっと別で書き残したいとは思う。喪主って言ったって、家族葬で参列者が十数名の中、私が一番年下っていう状況で、それで喪主とかちょっと笑ってしまったな。
火葬の後、すごく丁寧にこの部分は喉ぼとけですとか説明してくれて、骨壺に納めていって、最後に頭蓋骨をそっと一番上に置いてくれた時、お父さんの顔だった。思い込みだとは思うけど、もう肉も皮膚も眼球もないけど、お父さんの目をしている骸骨がそこにあった。当然のこと?思い込み?もうどっちかわからん。
葬儀が終わって火葬場で最後に挨拶して解散~ってなった後、伯母が声をかけてくれて、「よく頑張ったね」って言われて、親戚一同の前ではその時初めてぼろっぼろに泣いてしまった。情けない。
別に誉めてほしかったわけじゃないけど、私と母が潜り抜けたこの数年のことを思ってくれた人がいるってだけで嬉しかったし、そしてその時間は、苦労ばっかりでしんどかったけどお父さんがいた時間は終わったんだって思い知って悲しかった。
HSPと一緒に介護のことを書こうと始めたこのnoteの、介護の部分はもう終わりです。少しの間は、死に関して思ったこととかを書くかも。書かないかも。少なくともプロフィールから介護の文字は消します。
最後。
父の容体が急変したって病院から連絡を受けた時、休日で、すんごいだらしない部屋着でいた。すぐ家を出なきゃってなったから目の前にあったTシャツに着替えた。そのTシャツが今年のミスチルのツアーTシャツで、後から気づいたけど背中に「miss you」って書いてあって。
こんなことあるかって思いながら、私のmiss youはこの先一生お父さんのことを指すのかもしれないと、今日も考えています。
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