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私にヨガの先生はできません!【第一話】無理です!

【あらすじ】

「ヨガのインストラクターとしてデビューすること」
ホットヨガスタジオの受付・事務社員の笹永ささながいとは、ある日突然、業務命令を受ける。
体の柔軟性や学生時代のトラウマが気がかりとなり「できません」と答えるものの、上司に押され、しぶしぶ研修を受けることに……。
前例のないトラブルを起こしつつも、なんとかデビューするいと葉。
ところが、今度は集客数が伸びずに悩んでしまう。
自信が持てない彼女のもとにやってくる新たな課題とは!?
モデルの先輩や元美容師の友人、はたまた取引先の担当者など、身近な人たちとともに奮闘するいと葉の約1年間の物語。
不安という名の壁を乗り越え、成長する主人公を描く『令和のお仕事小説』

 前屈ぜんくつをする。
 わかっていたけどやっぱり痛い!
 太ももの裏側はびりびりするし、ふくらはぎの後ろも、無理やりピンと引っ張られている感じ。皮膚の繊維が、ぷちん、ぷちんと音を立てて千切れるんじゃないかと思った。
 全身の毛穴から滲むイヤな汗も、これじゃ涙だ。
「うう」
 街のほてりがようやく冷めつつある九月の土曜日。まだ温かさの残る閉店後のホットヨガスタジオで、私はうめく。
 両足を揃えて立ち、頭のてっぺんを床に近づけるようにして、上半身を前に倒した状態。指先はなんとかギリギリ床についている。身体が力んでいるせいか、上手く酸素が吸えなくて、どんどん苦しくなっていく。
「オッケー。いける、いける」
 私はこんなに辛いというのに、店長である岩倉いわくらチカラは軽い調子でそう言った。黒いスーツは、彼ご自慢の筋肉にぴたぴたと貼りつくようにして、光沢を放っている。
「ええ? 見てましたよね? 今の! 私、体硬いんですってば!」
 勢いよく体を起こし、噛みつくようにキャンキャンと声を上げる。
「ああ。見てた、見てた。笹永ささながなら問題ない」
「どこがですか! ヨガのインストラクターですよ? 体、もっと柔らかくないと。ほら、えりかさんみたいに、体をべたって倒せるくらいじゃないと! 会員さんから見ても、説得力ないじゃないですか」
 スタジオの鏡を拭いている有栖ありすえりかチーフへと視線を送り、助けを求める。ぴかぴかの鏡越しに彼女の大きな瞳がひとつ瞬く。
 先輩! なんとか言ってください!
「うーん。あたしも、いと葉なら大丈夫だと思うの。レッスンに参加してくれてるときに見てたけど、基本のポーズはわりとできてるもの。練習さえすれば、人にお手本を見せることだって難しくないはずよ。柔軟性はこれからもアップしていくだろうし。うちのスタジオでやってる、エクササイズ系のヨガレッスンなら、できるんじゃないかしら。研修だってあるんだから」
 えりかさんがうなずく。ひとつにまとめられたミルクティ色のロングヘア。その毛先が「そうよ、そうよ」と同調するかのように優雅に舞った。
「そんなあ」
 私のまぬけな声がスタジオ内に響く。
「これで、上司の俺と、先輩インストラクター、有栖ありすのお墨付きってわけだ。よし、決まりだな」
「うう。無理ですよお。私にヨガの先生はできませんってば!!!」
 私はいつになく、はっきりとノーを伝える。ここでちゃんと言っておかないと、流れでインストラクターデビューさせられそうだ。
 そんなの、無理! 向いてなさすぎる!
「そうはいっても、本社会議で決まったことなんだよな。正社員は全員、ヨガのレッスンができるようにしておくって」
「いつですか?」
「さっき」
 岩倉いわくら店長は見せつけるように、本社会議用のビジネスバッグを叩いた。ポンっというこの場に似合わない軽快な音が鳴るものだから、私はそれに恨めし気な視線を送る。
 岩倉店長はそんなこちらの様子なんて気にも留めず、もう話は終わったとでもいうかのように、スタジオの鏡の方を向いている。汚れや曇りのチェックをするためじゃない。自分の顔や体格を眺めるためだということを、私はもう知っている。
 たしかに、三十六歳にしては若々しいし、見る人が見ればかっこいいのかもしれない。だとしても! 今! うっとりするのはどうなんだ。
 鏡の中で、アスリートのように短く揃えられた彼の黒髪がキラリと艶めいた気がした。
「……あのう、店長。本当に私、難しいと思うんです」
「それは、体が柔らかくないからか?」
 岩倉店長は鏡の方を見たまま聞いてくる。
「それもあります。あと、人前で話すことは苦手ですし、声も通りにくいって言われるし、解剖学もよくわかりません。記憶力だってよくないから、レッスンの進行もうまくいかないと思います」
 できない理由は、いくらだって飛び出してくる。
「なるほど」
 岩倉いわくら店長は低いトーンで呟いた。
 これで、諦めてくれるだろうか。
「だから……」
「つまり、まだ自信がないってことか」
「へ?」
 へんてこな声が零れる。
「違うのか?」
 岩倉店長は顔を鏡からこちらへ向け、まっすぐに見つめてくる。
 天井の照明の光が彼の黒目に反射して、攻撃するようにこちらの瞳に突き刺さる。
 ぐう、目力が強い……。
「……そう、かもしれません」
「ま、最初はそんなもんだって。ひとまず、一回やってみてくれよ。本当に嫌なら、そのとき考えよう」
 岩倉店長はそう言うと、もう一つの管轄の系列店である、フィットネスクラブ・Altairアルタイルへと行ってしまった。
 あっちでも会議内容を報告して、その後は、人のいないトレーニングエリアでせっせと筋トレに励むか、鏡の前で筋肉の仕上がり具合を確かめるんだと思う。妄想じゃない。勤務後にそういうことをしているって、自分で話していたことがあるのだ。
 そういや、ここ最近は会うたびに、肩や腕の筋肉がめきめきと育っている気がする。
 大人になると、色んなことにおいて成長を実感しにくくなるってどこかで聞いたことがあるけれど、あれって嘘なんじゃないだろうか?
 岩倉店長の絶賛進化中! な筋肉を眺めると、そう思うこともある。

「あはは。いと葉のそんな絶望的な顔、初めて見たわ」
 スタジオに敷き詰められたヨガマットを一枚ずつ拭きながら、えりかさんが言った。
「どうしたらいいんでしょう。入社してちょうど一年経ちますけど、まさかこんなことに……」
 私はえりかさんが拭き終えたヨガマットを二、三枚ずつ持ち上げて、せっせと専用のバーに干していく。
 意外と重みのあるそれが、いつもに増してずんと腕にのしかかる。
「あたしだったら、イヤなら断るわ」
「え?」
 意外な答えに思わず振り向く。
「イヤなこと、している時間がもったいないもの。好きなことをしなきゃね。もちろん、そのために我慢しなきゃならないことはあるけれど」
 えりかさんが力強く言った。
 チーフの彼女は元アイドルで、今もモデルの副業をしている。そう聞くと、誰もがやっぱり、と納得するような華がある。二十三歳のときに入社して現在二十八歳。私の四つ年上だ。
 手足の長いすらりとしたスタイルに憧れてなのか、レッスン参加者には同世代の女性が多い。
 ほら、こういう人こそ、ここ、ホットヨガスタジオ・Vegaベガのインストラクターを名乗る資格のある人なんだ。
 彼女の他にいる、外部のインストラクターを思い浮かべる。年齢や雰囲気はさまざまだけれど、それぞれが個性ある美しさを持っている、と感じる。
 だから私なんて……、と思いつつ、断り切れなかったことをじめじめ悔やむ。
「でも、仕事だし……」
「仕事でもよ。いと葉、今はもう令和なのよ」
「令和ですけど」
 私にとっては、令和だろうと、平成だろうと、昭和だろうとおんなじだ。イヤな仕事は断るだなんて、そんなこと許されるのだろうか。
 仮に許されるのだとしても、私にはそれを人に伝える勇気なんてない。
「じゃあ、言い方を変えるわね。いと葉、ここに入社したときのことを思い出してみて。勤務内容に、インストラクター業務は入ってたかしら?」
「えっと、たしか希望者はヨガのインストラクターの研修を受けられるとは書いてありました」
 もしも、ヨガのレッスンを持つことが採用の必須条件だったのなら、今、ここにはいないと思う。
「でしょう? 明確に書かれてたのなら仕方ない部分もあるけど、そうじゃないでしょう? なら、契約上も当たり前にノーと言っていいの」
 えりかさんは、当然でしょう? というようにうなずく。
「でも……。岩倉店長を前にして、断れるでしょうか」
 正直、できそうにない。
「そうねえ……。いと葉、知ってる?『岩倉いわくらチカラの目力めぢからは強い』って、姉妹店のアルタイルではまことしやかに囁かれているの。あの人にじっと見られると、断りにくいって」
 イワクラチカラノメヂカラハツヨイ。
 標語のような文字列が、頭の中をぐるぐる回る。
「……さっき、身をもって実感しました」
 思い出したくもない。
 ヘビに睨まれたカエル、タカの前のスズメ。ヘタをしたら、そんなことわざたちのメンバーに「笹永ささながいと」も加わってしまうところだった。
「だからね、断るにしてもちゃんと理由があった方がいいかもしれないわ」
「理由ですか?」
「そうそう。やってみたけど、こういう理由で無理でしたってね」
 たしかに、今の私がいくら断っても、彼からすると「やってみないとわからない」となると思う。
「それじゃ、一度、試してみるしかなさそうですよね」
「そうなのよねえ。少しは頑張れそう?」
「はい。イヤならやめるって決めておけるなら、ちょっとは気が楽です。ちゃんと、岩倉店長にNOって言えるかはまだ不安ですけど」
「そうよねえ……。まあ、まずは研修を受けてみて、って感じね」
 えりかさんが言った。
「うう。なんか、緊張します」
「ああ、大丈夫。教えてくれる人、多分あたしのときとおんなじ人じゃないかしら? だったら、いい先生よ」
「なら、よかった? です」
 状況的にはちっともよくないけれど、これで超スパルタ講師にびしばし鍛えられると思うとぞっとする。そうじゃないなら、少しは安心だ。
 スタッフしかいないスタジオで、私は大きくひとつため息を吐いた。

第二話「ペンタスガーデン」へ

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