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心が浮沈するエアマン

人間、誰でも心は浮き沈みするものです。一生の中でも、1年の中でも、1日の中でも、1レグのフライトの中でさえ、心の浮き沈みはあります。プロシージャーを間違えた、フレアがうまく掛かってナイスランディング出来た等々、小さな出来事に嘆き、喜び、その時々の感情の移ろいを殆ど忘れながら、人間は日々生きています。

その浮沈が社会的、人間的に一般の振れ幅を超えてくると、躁鬱(そううつ)と呼ばれる精神的異常と見なされて行きます。精神領域における躁鬱と正常の境界は見えにくく、かつ症状も変わり易いものです。

実機試験に合格した学生がデロデロになって大燥ぎしていました。そこまで頑張った労苦を知っていれば、高揚感で浮かれているのも異常ではないのです。機長昇格試験に一度ならず通らなかった中堅パイロットが、将来を悲観してもう飛べない気持ちになるのも、職業パイロットのキャリアを考えれば当然かも知れません。こういう感情の一時的な偏移は、その後自然と正常化するものです。

けれども精神を病むきっかけが、常識的に理解できる出来事であっても、それが常態化していけば、それは異常です。躁の場合は、言動が尊大となり、金遣いも荒くなるなど、一瞥して分かりやすいものです。鬱の時は、気分の落ち込みが見て取れることもある一方、不眠や怠さといったエアマンに日常よく見られる症状のことがあり、「フライトでお疲れなのでしょう」と誤解されることが多々あります。

鬱が始まるきっかけは、試験不合格、離婚、死別といった大きな喪失体験の他、同僚や上司との小さな、日常的な確執や反目といった些細なストレスも引き金となります。つまり本人がかかえる社会的なストレスと心因反応としての抑うつ状態を総合して理解しないと、早期の鬱は見つけられないのです。

そのため産業医の先生方は、セルフチェックとラインチェックを推奨しています。セルフチェックは言わずと知れた自己診断です。インターネットで検索すると、色んな判断方法が紹介されています。ラインチェックとは「路線チェック」のことではなく、自分の同僚など水平方向からの精神的評価と、上司や部下からの垂直方向からの評価の両方を指します。エアマンにおけるラインチェックは非常に重要で、これらの評価情報からエアマンの精神障害が察知されることが多いのです。

ところがエアマンの狭小な仲間意識や、他人の私的なトラブルに巻き込まれたくないという回避的思考から、薄々気づいていた異常を誰も管理部門へ報告しない職場の風潮が問題になってきました。

もう40年以上前に、羽田空港手前の東京湾上でDC-8の機長が突如逆噴射レバーを作動させ、意図的に墜落させた事故がありました。副操縦士が「機長、何をするんですか!!」と絶叫して止めさせようとしたものの手遅れで、乗員乗客174人中24人が死亡し、機長を含む149人が負傷する大事故となりました。

機長は精神分析が行われて、統合失調症(当時は分裂病と呼ばれていました)による精神錯乱状態であったと判定されました。それは驚くべき事ではありませんでしたが、この機長と一緒に飛んだことがある複数の同僚エアマンが、機長の怪奇な言動を認識していたのです。早期に職場での介入があれば、この事故は回避できた筈でした。

日本の航空身体検査制度は、この事故をきっかけに確立されたと云ってもいいでしょう。幸い、その後に精神錯乱や自殺企図による墜落事故は起こっていませんが、海外ではシンガポール、ドイツ、モザンビークなど世界各地で、不幸にもその後発生しています。特に自殺目的の無謀な操縦は、相棒の操縦士がトイレなどで操縦席を離れた隙にドアを閉め切って遂行されたことがCVRの解析で分かっています。今日では操縦士がコックピットを離れる時は、客室乗務員が入れ替わって入室し、孤立した状態を作らないような社内ルールとしています。

鬱病は脳細胞のセロトニン取り込みを抑制する薬(SSRI製剤)を服用すれば、治癒できずとも軽快させることが出来ます。躁鬱病(医学的には双極性障害と呼ばれます)はリチウム製剤がよく治療に用いられ、精神状態の安定化が図られます。FAA航空身体検査では、抗鬱剤を内服中のエアマンでも、服薬が遵守され、病状が安定していると担当医が評価すれば適合となることがあります。人知れず病気を抱えたまま飛んでいる状態は、本人ばかりでなく命を預ける乗客にも大変危険なことなのです。


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