「あ、私、外国人だ」と思った日。【スロベニア】
「あ、私、外国人だ。」
そう思った瞬間を、10年近くたった今でも鮮明に覚えている。
スロベニアの首都リュブリャナという都市に、1か月ほど滞在していた。
海外の同じ場所に1か月も滞在するのは初めてで、
決められたスケジュールに参加しながらも、
日課として、よく午前中に街の中央へ散歩に行っていた。
歩行者天国のように、車が入らないような街の中で、
自分が歩く大きな道の反対側に、保育園児くらいの子供たち10人くらいが、保育士さんのような大人に連れられて歩いていた。
私が保育園児の集団の横を通り過ぎようとした時、
小さな金髪の男の子が、ふいに立ち止まり、私をじっと見つめていた。
「なんだこの人」というような、
めずらしいなものを見るような視線だと、
当時の私は直感的に感じて、
「あ、私、外国人だ」
そう思ったのだった。
見た目も話す言葉も違うということで、
その土地で、自分が「異質なんだ」と実感したのはその瞬間だったと、
今でも覚えている。
もちろん、その男の子は本当に「異質だ」と思っていたかは定かではないし、
私がそう感じたということは、少なくとも自分の心の奥底には
「私はこの土地で外国人なんだ」という意識があったのだろうと思う。
「この土地で外国人なんだ」と思うとき、
日々見聞きする環境からの影響が一番大きいだろう。
例えば、スロベニアで目にする言葉は、
スロベニア語というスラブ系の言語のため、
使われている文字は見覚えのあるアルファベットなのに、全然わからない。
「外国人」ってなんだろう。
スロベニアよりも、隣のイタリアやクロアチアの方がわかりやすい観光地として有名かもしれない。
そのため、スロベニアにおいては、
アジア系の観光客もほとんど見かけないため、
黒髪黒目の見た目がアジア系の人はかなり珍しかったと思う。
いわゆるアジア系の見た目の人を、1か月間の滞在の中で、
一緒に泊まっていた日本人以外でほぼ見かけなかった。
もちろん見た目だけでは、誰が外国人なのかわからないし、
地面がつながっているヨーロッパ大陸において、
そもそも外国人って何なんだろう?と思うこともあった。
「国」って何だろう。
大学の授業で、「国際法」の授業を履修したこともあったが、
「こんなの解釈次第じゃん」と、当時しっかり真面目に受けていなかったこともあり、私の好みや興味には合わないと感じていた
(今思うととてももったいないが)。
しかし、働き始めてからの職業柄か、
自分がアイデンティティをどう感じているかに関わらず、
対外的に自分を守ってくれるのは、
パスポートやビザが証明する「●●人」なのだということを感じている。
世界の中でも「日本のパスポートは強い」と言われる。
言われることは知っていたが、あまり実感したことはなかった。
ロンドンでアルバイトをしていた際、同僚のベトナム人と
フランスへの旅行の計画について一緒に話していた。
私は割と直前に「この時期に行こうと思う」と相談した。
当時は同じEU圏だったので、フランスへの入国も楽でよかった!と思っていたくらいだ。
数日後、友人が悲しそうな顔で私に話したことが、当時の私は衝撃だった。
「私は、フランスに行くのにビザを取らなければならないから、
時間もお金もかかるし、予定に間に合わないから一緒に行けなそう」
「国民」って何だろう。
ある時点まで、同じ「国民」だったはずなのに、
いきなりご近所さんが「敵だ!」となった出来事は、歴史上何度も存在している。
それまで同じ「国民」だったのが、ある日いきなり分断され。
「〇〇人」「××人」とラベルを貼られて、戦になるのだ。
スロベニアも関係している
1990年代の旧ユーゴスラビア紛争、
東西ベルリン分裂、
ヨーロッパにおけるユダヤ人の迫害など、
色々な博物館や跡地に足を運んでは考えてみるものの、
結局答えは出ないままだ。
国に対するアイデンティティや疎外感については、
相対的なものだと感じることも多い。
ロンドンの中心部に住んでいた時には、観光客も多く、
いわゆる様々な人種の人たちが行き交っていたので、
あまり自分が「外国人だ」とショックを感じたことは少なかったように思う。
(アジア系女性としての偏見や差別のような出来事はあったが。)
バングラデシュやスリランカなどの南アジア地域や、
イランやヨルダンなどの中東地域にいたときにも、
自分が所属していたコミュニティが多国籍や、
同じ日本出身のコミュニティだったためか、
あまり疎外感は感じなかった。
スロベニアの出来事の時は、
スロベニア人がほとんどのコミュニティの中にいたし、
散歩をしていたときは、
ほんとうにひとりっきりで歩いていたからこそ、
「あ、私、外国人だ。」と、疎外感を感じたのかもしれない。
この文章を書き始めて面白い!と思い出したのは、
私が「あ、外国人だ。」と思ったのは、海外にいるときだけではなかった。
スロベニア滞在から半年後、
日本の茨城県で、ブラジル人の友人に誘われて、
ブラジル人コミュニティのお祭りに参加したとき、
みんながポルトガル語をしゃべって楽しそうに会話していた。
私はポルトガル語が全く話せず、
「わたしはどこにいるんだろう」(←日本の茨城県)
「みんな楽しそうだけど、私は言葉がわからないや」と思い、
みんながわいわい騒いでいる中、ふっと寂しくなったのも覚えている。
そう考えると、「外国人だ」と感じるときは、
もちろん、国籍や住む場所に影響されることもあるだろうが、
周囲と自分を相対的に考えて、自分自身がどう感じるかも影響しているのかもしれない。
しかし、そんなもやもやする考え事を流すように、
雄大な自然と静けさが、スロベニアには存在していて、
私たちが今この場所で生きているのだという実感を、確かにくれたのだった。
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