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わたしにも魔法は使えたみたい

いまの「わたし」は「わたし」なのか。それともさっきまで読んでいた小説の主人公なのか。現実と物語の境の浮遊感を味わうのがたまらなく好きだ。

電車の中で本を開く。最初は文字を目で追っている感覚があるのに、いつの間にかわたしの意識は物語の中に溶け込んでいく。車内の喋り声も聴こえなくなって、わたしの輪郭も曖昧なものになる。

目的地の駅に着いて本を閉じても、物語は醒めない。

歩いているのはいつもの道なのに、小学生のわたしはやたらと道端の花々に目が止まる。男子中学生のわたしはちょっと遠回りして歩きだす。おいらんのわたしには、いつもの光景がなんだかとても異様なものに映る。吉原を出て普通の暮らしをすることになったら、一体どんな気持ちかしら。ちゃんと禿時代からの借金を払って出たのかしら、それとも掟を破って逃げ出したのかしら。
人によって見える景色も、感じ方も、大きく変わってくる。

夜眠る前に読んでしまうとそのあとすぐに夢の世界に入ってしまうからなんだか勿体無い。電車で読んで「このあと、わたしはどうするんだろう」の余韻を残すのが好きなのだ。そうすると特別な浮遊感の中、わたしは色んな人の視点で街を歩くことが出来る。


わたしのように物語の世界に溶け込むことが得意なひとに、そしてその感覚を味わいたいひとに、川上弘美さんの『三度目の恋』はうってつけの作品だ。

子供の頃からずっと大好きだったナーちゃんと結婚した梨子。
やさしくて魅力的なナーちゃんは多くの女性から好かれ、妻がいたって女性と逢瀬を重ねる。そしてそれを梨子に隠そうとしない。

ナーちゃんは、答えてしまう。いつだって正直に。

なぜナーちゃんは、誤魔化す、ということをしないのでしょう。誤魔化すということが、愛する者に対する思いやりだということを、知ろうとしないのでしょう。(p30)
「でもね、大人になった生矢さんは、中学生の時よりもさらに自然ですてきになっていたわ。女が望む男のかたちを、ぎゅっとしぼってしたたった雫をあつめて、もう一度あらためて理想の姿にこしらえたような、そんな男に感じられたのよ、わたくしには」(p52)

ナーちゃんのことはいまでも好きだ。
たったひとり、唯一無二の好きなひとだ。
ナーちゃんを好きでいることに何の疑いも無かった。


けれど、ナーちゃんがはじめて隠しごとをした。

今回は彼が恋をしていることに気づけなかった。
隠し通せるくらい彼にとっては本気の恋だった。

それでも、恋が終わった後のナーちゃんの取り乱し方から、結局のところ梨子はその恋を知ることになってしまう。

ナーちゃんは、梨子のことを嫌いな訳じゃない。
梨子だって、ナーちゃんのことは今でも好き。

それでも、お互いに大事なものを失ってしまった。


そんなある日、梨子は用務員室の高岡さんと再会し、小学生の頃に聞いた「魔法」を教えてもらうことになる。

「そんなにも、彼が好きなの?」
高岡さんは、静かに聞きました。
「好き」
簡潔に、わたしは答えました。
「それなら、きみも魔法をおぼえることができるよ、きっと」(p73)


梨子は昔の夢を見るようになっていく。

昔と言っても子供の頃の自分ではなく、江戸の時代を春月という名前のおいらんとして生きている夢だ。春月としての意識の中に、たまに現代の梨子の意識がチラリと覗く。
夢の中で、梨子は、春月は、成長していく。眠れば、春月として生きられる。それが、高岡さんの言う「魔法」だった。

夢から覚めても離れ離れになったかかさんやととさんを想って胸を痛め、濃紫のおねえさんが読んでいた綴本・伊勢物語の業平に自分を重ねる。

春月のいる江戸には、もちろんナーちゃんはいない。
現代と昔を行き来するようになり、必然的に梨子にとってナーちゃんは唯一無二の人では無くなっていく。

ただただ一人のひとを愛し続けるのは素敵なことだ。けれど夢の中でいろんな人と出会って夢の中で恋をして、それによってナーちゃんへの気持ちに変化が訪れるのも、それはそれで素敵だなと思える。
他の人を知ることによって、ナーちゃんを知る。その人だけを見つめていても見えてこないものというのも確かに存在する。


高岡さんの言う「魔法」はわたしが言う「物語の中に溶け込む」感覚にとても近い。
この本を読んでいる間、梨子の暮らす世界、春月のいる江戸時代、業平の平安時代、そしてわたしの今いる現実世界、を行き来し続けた。

映像作品でも漫画でも本でも、ふとした瞬間にその登場人物の内側に入り込むことがある。入り込む、と言うよりも春月と同じく一心同体に近い。その登場人物の意識で物事を見て感じるようになる。

先日アニメの中の小学生の女の子に対し、恋人が「こむぎちゃんなら友達になれるね。あ、でも歳の差が結構あるか」と言ってきて、思わずぽかんとしてしまった。
その時のわたしの意識はすでにそのクラスの中にあって、20代のわたしではなく、小学生のわたしだったから。恋人にそれを伝えれば「意識を小学生にまで飛ばせるの?」と驚いていた。


以前、作品という箱庭の外から見るか内から見るかによって偶像に対して恋ができるかどうかが変わるのでは?という内容のnoteを書いたけれど、まさにそれだ。作品の内側から見る感覚。

正確には同じではないかもしれない。
それでも「魔法」と呼んでもらえたのが嬉しかった。

だって、わたしにも魔法が使えるということだ。
履歴書には書けない特技。魔法ならば仕方がない。

魔法を使ってみたい人に、その感覚を味わいたい人に、そして伊勢物語が好きな人に、『三度目の恋』をお勧めしたい。

わたしはこれからも魔法を使って物語の中を泳ぎ続ける。


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大麦こむぎ
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