「洗濯機を持たない生活」を持続可能にするための方略について
去年の8月に「洗濯機を使わない生活」について書いたら、なぜかnoteの”今日の注目記事”に選ばれて、多くの人に読んでもらい、たくさんコメントをいただいた。
あれから9か月たった今も、僕は家に洗濯機を置いていない。
ただ、シーツやカーテンを洗うときや、忙しい日々が続いてどうしようもなく手洗い洗濯が面倒になってしまったときにはコインランドリーに頼るので、「洗濯機を使わない生活」ではなく、「洗濯機を持たない生活」というのがより正確だ。
去年の8月にこの生活を始めてから、しばらくして秋になり、寒い冬が過ぎ、苦手な春を超え、もうすぐ、梅雨が訪れようとしている。
春は仕事が忙しくて、洗濯をする余裕のない日が多かった。忙しい日々のなかに隙間を見つけて、溜まった洗濯物を手で洗っていたときなんかは、「こんなしんどいのに洗濯機買えへんなんて、一種のセルフネグレクトじゃないか。生活を整えることに手間をかけすぎて自分のしんどさを顧みないことを逆セルフネグレクトって呼んでもいいんちゃうか」なんてことを思って自暴自棄になっていたけれど、それでも洗濯機を買うことを、僕は選ばなかった。
「自閉症の人は水が好きな人が多い」なんてことを、障害のある人と関わる仕事をしていて時々耳にするけれど、僕も水が好きなようで、手洗い洗濯や食器洗いをすると気持ちが落ち着く。それに、やっぱり上半身の筋肉を使う機会って日々暮らしていてそんなに多くないから、洗濯機に任せるよりも自分の腕を使った方が筋トレになって良い気がする。そんなこんなで、今でも我が家の洗面所には、洗濯機の代わりに脱水機がのさばっている。脱水機を最初に買っておいて本当に良かったと思う。大きな衣類を絞るのは大変だし、脱水機にかけると冬でも乾きやすい。
僕は平成生まれの現代っ子なので、洗濯機だけじゃなくて、車も持っていない(「気持ちよく所有できる物」のキャパシティが人より小さいだけのような気もするけれど)。だからコインランドリーに大量の衣類を運ぶのも、まあまあめんどくさい。リュックやバックパックにパンパンにつめて、自転車で運ばないといけない。それでも収まらないときは、大きな袋に残りをつめて運ぶのだけど、コインランドリーは人や車が比較的多い大通りにあるから、でかい袋を自転車のハンドルにひっかけて走るのが少し恥ずかしくなることもある。変なことをしている癖に、人並みの羞恥心はあるのだ。
お金もかかることだし、なるべくコインランドリーを使わず、家で洗濯をしたい。
手洗い洗濯を始めたころは、たらいに重曹を入れてつけ置きをして、そのあとで食器用洗剤で洗う、という手順を踏んでいた。そのうち重曹使わなくてもよくないか?ってなって、洗濯洗剤でつけ置きをするようになった。
ある日ふと、「たらいを使ってまとめて洗濯するより、少量なら洗面台でもみ洗いした方が楽なんじゃないか」と思うようになった。
そのときたまたま使っていた洗面台のハンドソープを使って衣類を洗うと、洗ったあとで、衣類からなんだかいい匂いがした。
ビオレの泡ハンドソープの「フルーツの香り」・・・。
僕は、この匂いが、好きかもしれない・・・!!
手洗い洗濯は面倒な分、終わって洗濯かごの中身が空っぽになったら気持ちがとてもすっきりする。だけど、洗濯物がたくさん溜まってくると憂鬱になる。
ならば、こまめにやればいい。
そのことに気づいたのは、洗濯機を持たない生活を初めて8ヵ月くらいがたった頃だった。僕は物事に気づくのがとても遅い。
気づいてからは、なるべく毎朝洗濯をするようにしている。
顔を洗うついでに、洗濯かごの中身を洗面台に少しずつぶちこみ、ハンドソープでもみもみして、すすいでから脱水機へ。朝の日課にしてしまおう。
こまめにやれば、毎回の負担が少ないし、気持ちがすっきりする感覚もたくさん味わえる。そうすれば、「洗濯機を持たない生活」を、より持続可能なものにできるかもしれない。
新たな発見。
これで洗濯機を持たない生活もクリアできた気がするなあと思って、ふと台所を見ると、昨日からの洗い物が溜まったままになっている。
洗濯をこまめにするようになったら、これまで当たり前にできていた、「洗い物はその日のうちに片づける」が、いつの間にかできなくなっていた。何事も両立は難しい。
何かを成し遂げるためには何かを犠牲にしないといけない。
トレードオフ。この世界の定理なのかもしれない。