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席を譲ることの難しさを考える
外出からの帰り、バスに乗り、後部座席に腰掛けた。日が暮れ、車内は薄暗い。しばらくすると、70代くらいの男性が私の席のすぐ横に立ち、つり革につかまった。少しふらついたように見えたので、私は男性に声をかけた。
― お席どうぞ
― え?あ、私?いや、大丈夫です。
― どうぞ、どうぞ。
(私は席を立ち、反対側に移動した)
― いや、ほんとに大丈夫ですよ。
― 私、次の次で降りますから、どうぞ。
― ( すると男性が私の顔を覗き込み) 僕、そんなに年寄りに見える?
― (一瞬、どう返そうか逡巡したのち、笑顔で)うーん、私よりは、、、
― ありがとう。
男性は、笑みを浮かべてそう言うと、ようやく座った。
一連の押し問答に戸惑ったが、とっさの返答で何とか事が収まり、ホッとした。しかし、時間が経つにつれ、様々な疑問が浮かんできた。
人は年寄り扱いされることを嫌悪するのだろうか。人の善意を受け入れにくい世の中になっているのだろうか。 私は男性の意思を尊重して席を譲るのをあきらめるべきだったのだろうか。
他方で、もし男性が譲られた席にすぐに座ってくれたら、私も譲ったことに対して、後悔とは言わないまでも、少なくとも困惑はしなかっただろうし、それを見ている周りの人も、同じような状況になったら他の誰かに席を譲ってみようと思うのではないか。それであきらめたくなかった自分がいたのも事実だ。
悶々とする感情を抱え、親に尋ねると、こんな返事が返ってきた。
この世代は、年寄りに見られたくない人が比較的多いと思う。ただ、女性は現実的で、譲られたら喜んで座るが、男性はプライドが高くて座りたがらないのかもしれない。かたや席を譲って受けてもらえない気まずさはよく分かる、若い人のためにも善意は受けた方がいい、と。
この感想に救われた。ただ、まだ釈然としない自分がいる。
大江健三郎がエッセイ集『定義集』の中に書いていたシモーヌ・ヴェイユの一節を想い出した。
「不幸な人間に対して注意深くあり、-どこかお苦しいのですか?と問いかける力を持つかどうかに、人間らしい資質がかかっている」
ヴェイユの言う「問いかける力」を私は信じている。 ただ、この男性が当初席を譲られるのを渋るほど、積極的な善意を示した私の行動が、果たして適切だったか。今でもまだ分からない。瞬発的なやり取りの中で、相手の様子を推し量り、適切に対応するのは至難の業だが、少なくとも、善意の押し売りにはならないようにしたいと思った。大江の言う「注意深くかつ節度ある振る舞い」 ができるような自分でありたい。