小説 桜ノ宮④

施設を出て歩き出した時だった。紗雪の背後から足音が迫ってきた。
「市川さん」
事務担当の岸という若い女だった。つけまつげを瞬かせながら紗雪のもとにやってくる。
「あの、すみません」
「はい」
息を上げている岸に対し、紗雪は表情一つ変えずに答えた。
「今月からお支払いの方が滞っているんですが」
「え」
施設のローンは父親の通帳から引き落とされていた。
「そうなんですか」
「はい。できるだけ早めにお振込みいただけるとありがたいのですが」
夕日を浴びてうっすらと光る岸の産毛に紗雪は少し嫉妬した。
「わかりました。すみません」
「お願いします」
岸は肩で息をしながら踵を返した。
紗雪は施設を見渡した。
このお城のような高級老人ホームに入りたいと願ったのは母だった。
小さな施設もあったのだが、本人がどうしてもここがいいと言いぬいたのだ。
「お父さんのお金、使い果たしてから死にたいんよ」
母親の目はギラリと憎しみに満ちていた。
紗雪と母親は酒乱の父親に苦労させられた。
特に母親は暴力も受けていたので恨むのはなおさらだった。
離婚できなかったのは、母親に経済力が無かったのと見栄っ張りであったことが起因している。
父親は大企業でそこそこ出世したため、収入は多い方だったし、機嫌のいい時は金払いも良かった。
妻にみすぼらしい格好をさせるような男ではなかったのだ。
紗雪の母親は、暴力と引き換えに化粧品や洋服、バッグを手に入れてきた。
二人の関係はそれで成り立っていたのである。
しかし、その父親が50代半ばに母親と離婚したいと言い出した。
20代の恋人ができたのである。投資にも成功していた父は、お金の面倒は見るからとにかく別れてくれと母親にせがんだ。
最初は別れられることを喜んでいた母親であったが、やがてその20代の恋人が妊娠していることを知ると、逆上した。ただ、その対象は父ではなく紗雪だった。
「あんたのお父さんは最低や。キモチワルイ!」
母親は紗雪に向かってものを投げつけ、殴りかかってきた。
「お母さん、お父さんと一緒やね」
さんざん殴られて唇を切った紗雪がつぶやくと、母親は泣き崩れた。
離婚が成立した後、母親は不安定になった。
当時、財団法人で事務の仕事をしていた紗雪は大学時代からの恋人と婚約中だった。
母親は恋人のいる紗雪に嫉妬した。
恋人の携帯に時間も考えず電話をして紗雪に関するあることないことを吹き込んだ。
「あの子はあんたが思っているような子やないよ」
「平気で二股かけるような子やで」
紗雪は母親によってとんだ淫乱に仕立て上げられていった。
当然、恋人は紗雪から離れ、婚約は解消された。
その頃から、母親の不安定さに拍車がかかり始めた。
職場にもしょっちゅう電話をかけてくるので、居づらくなり退職するに至った。
それからは、父親からの援助に加え単発や短期の派遣などで食いつないだ。
そうこうしているうちに紗雪の年齢は35歳を超えた。
叔母のアドバイスもあり、母親を施設へ入れることにしたのはこの頃だった。
最初は嫌がった母親であったが、実の妹が持ってきたいくつかある施設のパンフレットの中からこの豪華な施設の写真と住むにかかる費用を目にしてすぐ気が変わった。
「ここがいいわ。ここのお金、全部、お父さんにはらってもらお。な?」
いくら金銭的に余裕がある父親でも少し戸惑ってしまうような高額だった。
この施設へ入ることが父親及び自分に対する復讐なのだ。
叔母とともにはしゃぐ母親の姿を見て紗雪は思った。
この件について父親はあまりいい顔をしなかったが、離婚する時の約束を遂行した。
書類に記入してもらうため、紗雪は久しぶりに父親と会った。
梅田の商業施設のなかにある喫茶店で二人は向かい合って座った。
年は取っているものの、若い妻と小さな子供に日々囲まれているせいか活き活きとして見えた。
「紗雪は、お母さんに長生きしてもらいたいか?」
施設の書類に自分の口座を記入する手を止めて父親が紗雪に訊いてきた。
紗雪は返事が出来なかった。
「紗雪も自分の幸せを探しなさい」
鼓動が早まるのを紗雪は感じていた。怒りで体が震えていた。
母親を施設に入れた後、紗雪は馴染みの派遣会社に紹介予定派遣で働きたいことを申し入れた。
メーカーに営業として派遣され、未経験であったが必死で成績を上げていったところ、半年後には正社員になることが出来た。
正社員になってさらに一生懸命働いていたところで、会社の業績が不振となりリストラが決行された。紗雪も対象に入っていた。
再び、正社員として働くため、就職活動を始めたが、40歳になった紗雪はほとんど書類で落とされた。正社員に半ばあきらめをつけ、紗雪は派遣会社に再び登録した。そこで紹介されたのが今回の会社だったのである。
上司として紹介された男とまさか母親を預けている施設で会うとは思いもしなかった。
しかも泣く姿まで見ることになるとは。
「父さんに電話するの、明日にしよう。今日は疲れた」
紗雪は、面接時に広季から指の先から胸までジロジロみられていたことを思い出しながら、駅へと向かった。
「今日は歩いて帰ろうかな」
紗雪の住むマンションは桜ノ宮にあった。夕暮れが夜へと変わろうとしていた。紗雪は歩く速度を落とした。家に帰るころには夜桜が楽しめることを期待しながら。

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