見出し画像

妄想日記⑭もしも私がおじさまだったら。

やや寝不足の朝である。
昨日の枕で作った皴が取れたのは夜更けだった。
老けたような若返ったようなよくわからない日だった。
昨日の朝10時。
前もって俺の部屋に来るようにと伝えていたら、その10分前に彼女はやってきた。
少し顔色が悪かった。
「昨日、コンビニで買ったものは食べましたか?」
「あ、はい。サンドイッチとジュースを」
「そうですか。どうぞかけてください」
「はい」
彼女はソファに腰かけた。
ベージュのタートルネックセーターに水色のセミフレアスカートを穿いている。
「あの竹下小夜さん、でしたっけ。何とお呼びすれば」
「竹下さんでも、小夜さんでも」
「それでは小夜さん、この時代での過ごし方を説明しますね」
俺はバッグからスマホを取り出し、電話やメールの使い方、簡単な検索の仕方を説明した。
小夜は額に手を当てた。
「昭和39年から来た人間からすると、疲れてしまうことばかりです。こんなに色々変わるんですね」
「少しずつ、変わってきたんです」
「図書館は今でもありますか」
「あります。近くにありますよ。大きいのが」
伏し目がちだった彼女の顔つきが輝いた。
「本当?嬉しい!」
「説明が終わったら図書館へ行きましょうか。案内します」
デートだ!小夜とデートが出来る!
「ありがとうございます。私、短大を中退してお嫁に行ったから…。まだまだ読みたい本があったのに」
「ついでと言っては何ですが、街を案内しますよ」
「ありがとうございます。聡一郎さん!」
弾むような声に俺はとりこになった。
しかしだ。
近所の洋食店でランチを楽しんだ後、図書館へ行くと小夜の目から俺の姿は完全に消えていた。
没入感というか、「読み物」に対する集中力が半端ではなかったのだ。彼女は。
しかも読むのが異常に早い。
雑誌をとっかえひっかえ読み漁る姿に、他の利用者が目を見張る。
書棚を練り歩き、気になる本があればその場で立ち読み。
俺はそれを遠巻きに、目を離さないように眺める。
本は俺も嫌いじゃない。
むしろ好きな方だと思う。
でも、小夜ほどの情熱などは持っていなかった。
「小夜さん」
俺は肩を叩いた。
「はい」
振り返った小夜の目は心ここにあらずという感じだった。
「閉館の時間です。帰りましょう」
「ええ!もうそんな時間!主人に叱られちゃう」
小夜は慌てふためいて書棚に本を戻した。
「小夜さん、ここにいる時はご主人のことを忘れましょう」
「そう、でした」
うなずくのを確認すると俺はその手を掴んだ。
「さ、帰りましょう。夕飯は僕が作ります」
驚く小夜の目を無視して、歩き出した。
会ったこともない小夜の夫に嫉妬して。

小夜の身の上は出会ったその夜に簡単ではあるが聞いていた。
短大時代に文学に傾倒する娘を見かねた親がお見合いを準備し、2度ほど会った後に勝手に結婚を決められてしまったということだった。
昔ならありうるのだろうなと納得しつつ、可哀想だなと思った。

小夜は意に沿わぬ結婚をしても、本があれば大丈夫だと踏んでいた。
確かに本は全てを忘れさせてくれるが、あまり人柄もよくわからない男との結婚生活はつらいものだという。
詳しいことは話さないが顔の傷を見て少しは俺でも想像がついた。
とてもつらい日があると、バッグに少し荷物を入れて「家出ごっこ」をしていたのだという。
その日も家出ごっこの一環で駅の椅子に座っていると、叔母に話しかけられたというのだ。

「聡一郎さん、ありがとう。私、今日は久しぶりにとっても幸せよ」
図書館を出た後、建物を見上げて小夜は僕の両手を包んだ。
「それはどうも」
小夜の行動を追うのに疲れていた心が和らいだ。
「明日は街を案内しますからね」
「はい」

そう約束したのだが、彼女は約束の時間には来なかった。
もしかして、と思い、図書館へ行くと何かを立ち読みしている小夜の姿があった。
「小夜さん、俺との約束を破ってこんなところにいるなんて」
わざと寂しそうにつぶやいた。
「ごめんなさい」
小夜は本を床に落とした。
谷崎潤一郎の「蓼食う虫」だった。

いいなと思ったら応援しよう!