韓国文学トークショーへ行ってきました。
2020年本屋大賞翻訳小説部門第一位「アーモンド」の作者であるソン・ウォンピョンさんを迎えての韓国文学トークショーが大阪・中之島ホールで駐大阪韓国文化院さんにより開催されました。
ステージには、司会で翻訳家のきむふなさん、作家のソン・ウォンピョンさん、通訳さん、書評家の江南亜美子さん、「アーモンド」の翻訳を担当した矢島暁子さんが並びました。
終始おだやかに時には笑いを交えながら、「アーモンド」やソン・ウォンピョンさんのほかの著作について歓談が続きました。
驚いたのは、ソン・ウォンピョンさんが話した内容を通訳さんが話す前に観客の多くの方が理解して頷き、それが愉しければ声を出して笑っていたこと。
きむふなさんもここまで観客が韓国語を理解しているイベントは経験がなかったようでとても驚いていました。
私はほぼ理解できず。皆さん、勉強熱心です。
私としては、日本と韓国の小説の違いについての会話が参考になりました。
日本の小説では、個人(自分)とその問題(事件)に「距離」を感じる。
韓国のものには熱さがあって、それを日本人は韓国映画などに求めている。
日本の小説は個人を心理的に深いほうへ突き詰めていくと社会的な問題とは離れる…みたいな内容が繰り広げられ、いくつか考えたこともなかった発言があったので本当に新鮮でした。
「客観的」ではなく「距離」というのが特に。
「客観的」に書く、ということを日本人は文章を作る時の基本のように教えられているので、そう説明されたら理解はできます。ただ、「距離」となるとそれを置いたり感じたりする作品を書いたり読んだりしたことが果たしてあっただろうか、などと考え込んでしまいました。
またその「距離」を「クール」と表された方もいて、「日本人はそんな飄々とした国民性でもない気がするけど。どちらかというと湿り気感じませんか」と思いましたが、これはたぶん、どちらも正解なのだろうなと受け止めました。
また、日本の小説における「個人」と「社会的な問題」の関係についてですが、かつてはそれを成した作品があったはずなので無いわけではなく、今はウケないからあまり日の目を浴びていないだけだと思います。
表に出ている作品は一部の方々に認められているだけなので、その人たちがそういうのを好かんのでしょう。
印象的だったのは、ソン・ウォンピョンさんが作品が認めらるようになるまで何度も習作を重ね、その間に書きたいものを「社会」に合わせるべきか、そうしたとしてその「社会」が自分に合わないものであったらと葛藤した話。
これは私を含め長々と書き続けているクリエイターさんたちは何度も悩み逡巡した事項ではないでしょうか。
その経験を「つらい」という言葉をもって説明したソン・ウォンピョンさん。あまり日本の作家でこんな直接的に吐露する方は見かけないのもあって、特別なお話を聞けたなと思いました。苦労話が自慢話になっていないところも優れた作家さんである証拠。
これが韓国の作家さんが持つ「熱さ」であり「距離」の無さなのかもしれません。
ソン・ウォンピョンさんの著作はまだ一冊しか読んでいませんが、すべてジャンルが違うものばかりらしいので、楽しみにして引き続き読んでいくつもりです。
ソン・ウォンピョンさん自体は、俳優の木内みどりさんや中村倫也さんみたいなかわいらしい顔立ちの女性で、おしゃべりの仕方はゆったりとしており、それがとても心地よかったです。
ほかのゲストの皆さんもひたすら穏やかでこんな落ち着いた集まりって素敵だなとほのぼのいたしました。
まあ、まだ外は暑かったんですけど。
大阪にはなかなか本格的な秋は来ませんねえ。
秋を待ちわびながら読書を楽しみたいと思います。
最後に、駐大阪韓国文化院さま、貴重な機会を本当にありがとうございました。