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『言い訳』-芸人はアスリート

コーンフレークが世を席捲した今年のM-1。

大会の裏側を見せるような動画を目にしたことで2年前くらいから真剣にみるようになった。表舞台ではふざけてしかいない彼らが、いかに真剣にふざけていたのかを理解するようになるとこちらの見方も変わってくる。

ペコパの破壊力たるや。すゑひろがりずももっと高い点数つけてもらってもいいのに。あのコール真似するやつ絶対いるだろ。オズワルドも面白かったのになあ。来年も見たい。

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エンタの神様やレッドカーペットみたいなネタ番組は激減し、お笑いの衰退が著しいとされていた近年ではあるが、ここ最近お笑いへの世間の熱量が高くなってきているのを肌で感じている。Youtubeで簡単にネタを観れるようになったことが大きいとは思うけれど、好きな芸人を語り合うようなコミュニティーが多い気がする。

それを象徴するように、少し前に出版されたナイツ橘の『言い訳』が10万部を超えたそう。今やM-1の審査員を務めるほどのプロフェッショナルが語る漫才は、僕ら大衆にも新しい視点を授けてくれる名著たりうる。漫才及びお笑いをここまで一般向けに言語化したのは彼が初めてなのでは?と思わされる程、漫才の魅力を具体例と共に紹介している。
人生のほぼすべてをお笑いにかけてきた男が真剣に語る様が文章を通して目に浮かぶよう。

著書の中でアメトークに関してこんなことを言っている。

あの番組の肝は、じつは話している内容ではありません。好きな事を夢中になって語っている芸人の様子がおもしろいのです。その表情だったり、身振り手振りだったりが、笑いを誘うのです。
あの番組が長寿であることは、一つの事実を物語っています。好きなものを異様に熱く語るだけで、それはボケになる。


まさにこの言葉のとおり、この本は彼が大好きなお笑いを異様に熱く綴っていることが面白さの核なんだと。そしてそれは無意識的にも一般人に伝わっているのだと思う。


M-1を見ていると、彼らのストイックさに驚かされる。面白さという評価基準が本来は属人的な指標に対して、多数決をもってその他人の尺度を奪い合う。そのためにあらゆる物を捧げ、葛藤する様はアスリートそのものなんじゃないかと。


漫才師は、アスリート

一部には、笑いは点数化すべきものではないとか、M1は「競技漫才」だとかいう批判もあります。もちろん、僕も漫才がスポーツだとは思っていません。でも、M1は漫才をスポーツのように見せることに成功したからこそ、これだけ注目され、年末の風物詩と呼ばれるまでのソフトになったのだと思います。


音楽や美術もそうだけど、アート性が重要視されるものを同一の基準で測定することはアートの本質ではないはず。

でも、M1のように、同一指標を競い合うことは漫才師にとっての自己実現の場であり、漫才師が輝ける場であり、彼ら自身の価値観が社会と繋がる重要な瞬間なのかな、と。

何だろうな、あのM-1の緊張感は。生きるか死ぬか。戦場を経験したことはないですけど、戦場って感じがする。いつも通りやるなど、不可能。
極端な話、M1が無かったら芸人を辞めていたかもしれません。

同じものを競い、奪い合う「スポーツ」は、肯定と否定を伴う。それこそが、人生の楽しさなのかもしれない。現代では。

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幸か不幸か、お笑いには人を没頭させてしまう魅力があるよう。ピース又吉の『火花』の中の、一部分がずっと心に残っている。

世界の景色が一変することを体感してほしいのだ。自分が考えたことで誰も笑わない恐怖を、自分が考えたことで誰かが笑う喜びを経験してほしいのだ。
必要がないことを長い時間かけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全くでないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。
――臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。

漫才師が、お笑い芸人が、真剣にふざける様は、かっこいい。
M-1は、僕らが彼らの生きざまに魅せられ、人生と繋がれる、無二の機会なのかもしれない。

漫才師のように生きたいなあ。そんな年の瀬。

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