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6歳で始めた茶道、30歳でひと区切りつきました

~他界した師匠に捧ぐ~

最初の師匠との出会い

小学校に上がったばかりの話です。
1つ上の姉と日本舞踊のお稽古に参加しました。
はたしてあれが体験だったのかしばらく通ったのか定かではありませんが、興味を持てずサラッと離脱。毎週ついて行っては姉のお稽古を眺めるだけでした。

抹茶のお菓子を食べたんだったかテレビでお茶の様子を見たんだったか、甘いお菓子とお抹茶、着物のマリアージュに心惹かれ、ある日母に言いました。

「お茶が習いたい。踊りのかわりにお茶に行きたい。」と。

私は聞き逃していなかったのです。踊りの稽古に向かいながら「この近くにお茶の先生がいるらしいんやけどね~」と母がつぶやいていたことを。

その後のことはよく覚えていませんが、
いつの間にか週一回お茶に通う人生が始まっていました。

今思えば、ガサツで落ち着きの無かった私を気にした両親が、これ幸いと先生にアポを取ったのではないかと思います。弟も生まれるのだからお茶でも習って少しくらいおしとやかになってくれ次女よ。といったところでしょうか。(残念ながらおしとやかになることはありませんでした。そもそもおしとやかとは何でしょう。)

毎週土曜日。
「今から行きます」と電話して家を出ます。家から車で15分。その間に先生は炭をおこしてお菓子を準備してくれます。

稽古はいつだって私と先生の二人きり。お点前を二回やって、最後の一杯は迎えに来た母へ。これが定番でした。

母も先生も、まさかこれが島を離れるまで続くなんて思ってなかっただろうし、まさか10歳になった娘が「いつかお茶の先生になりたい」などと言い出すなんて、誰も想像していなかったと思います。

毎回のお稽古では、お点前をしながらたくさんのお話をしました。
というよりは、先生の話を私が聞きながらお点前していた気がします。

よく覚えているのが戦時中の話。終戦時女学生だった先生は、青春の楽しい思い出も、戦争の記憶も、ごちゃまぜで話してくれました。

こんな事してゲラゲラ笑ったとよ~。そしたら空襲警報が鳴ってねえ。ピタッと笑い止めて急いで防空壕に走ったとよ~。最近は戦争のテレビでB29の音が流れるけん、好かんとよ。
終戦近くになるとタコツボち言う隠れ穴を各々掘ってねえ。大きい爆撃があったら誰の死体かわかるようにするための穴やけん、恐ろしくて入りたくなかったよ~。死ぬ時くらい友達と死にたいやないね~。

こんな話を聞きながら、私は淡々とお点前してました。なかなかの小学生。

高学年くらいから、町の文化祭でのお点前を私が担当するようになりました。私がお茶を習っている事は同級生たちは知っていたと思いますが、「ほんきでできるちゃねー!」と謎に実感されるなどしていました。

中学生になってからは、お茶会に連れて行ってもらったり、韓国人学生の文化体験に野点を披露してみたり。この時期はひたすら茶箱のお稽古をしたのをよく覚えています。

自転車で通うようになったのもこの頃からです。
四人の育児にてんてこ舞いの母は、習い事の送迎をよく忘れていました。前日の夜や当日の朝にリマインドしても忘れられてケンカ(最終的に私がお説教されるタイプ)の種になっていたので、黙ってチャリ漕いだ方がストレス少なく通えるぜ。というわけです。
なんとも私らしい思考・・・。

大人になって知りましたが、校区外に自転車で行くのはルール違反だそうです。お稽古から部活に直行しても先生から何も言われなかったし、あの頃はそんなルール無かったのか・・・?

自転車での道中、森の道は川が流れていて、そこから吹いてくる涼しい風が大好きでした。青紅葉から透けて射す光も、この時好きになりました。
秋には「来週は紅葉トンネルだ~!」と密かに楽しんでいました。
母は母でお迎え時のお茶が楽しみだったので毎週チャリでは行けませんでしたが、その時次第のあの感じが、自分の人生を生きている感じで、とっても好きでした。

生まれた時からひねくれガールの私には、学校と家以外に居場所があること、そこで心静かにノーマルでいられることが、心の成長に必要だったように思います。幼いながらにそれを直感したからこそ、たぐり寄せるように通い続けたのではないでしょうか。島を離れる時も本当は毎月帰省してお稽古に通おうかと画策したくらいです。

高校進学で島を離れたのでお稽古には行けなくなりましたが、長く頑張った記念にと初級の許状をいただきました。最初の許状を最初の師匠から頂けたことは、私の誇りです。
元々脚がわるかった先生は、その後しばらくして茶室を畳んでしまわれました。

お茶休止期

高校にも大学にも同じ裏千家の茶道部がありましたが、私にとってお茶とは師匠と二人で静かな時間を過ごすものだったので、どうも雰囲気に落ち着かず、入部しませんでした。部活となると超初心者コースしかないのも気分が乗らない理由でした(笑)。

そうは言っても人生のどこかでまたお茶を習いたい。
その気持ちは常にあったので、来るべき日のために着物をマスターしよう!とスイッチを入れたのが学生時代です。
ありがたいことに他大学の着物部に参加させてもらい、浴衣・着物・振袖・袴、全て自分で着れるよう鍛えて頂きました。毎年夏になると友人たちと浴衣でお祭りに行って、楽しかったなあ。卒業式の袴も自分で着て、それに合う花飾りもお花屋さんに作ってもらって。着物でコーディネートを組む楽しさを知ってしまいました。

「身に着けた技術は一生ものよ!」と着物の先生がおっしゃっていましたが、本当にそれ。数年越しに実感しています。

新しい師匠との出会い

社会人2年目の春、転職して実家に戻りました。
初夏、母を誘って蛍狩りに行くことに。
まだ蛍を見るには明るすぎてドライブしていました。

そこで目に入ったのは、和風なお庭で水を撒く女性。この方が私の新しい師匠となる人です。
運転していた母は路駐して話しかけました。
知り合いだったのです。
蛍の時間を待っている旨を話すと、「上がってお茶飲まんね!」とお誘いがあり、お言葉に甘えることに。

和風な庭は茶室の入り口で、中は広い茶室でした。母が知り合いだった理由はなんと、結婚式を挙げたホテルの奥様だったそうです。地元の女性部でも繋がっていた母はお茶に誘われていたようで、その日も先生はそんな話をしていました。

母が私の話をするまでは。

実はこの娘は・・・と話をはじめると、先生の表情が一瞬で変わり、

「あなただったのね!!」と一言。

なんとその先生は、最初の師匠の姉妹弟子でした。
お茶に熱心な小学生がいるのよと何度も聞かされていていた事や、一度だけ連れて行ってもらったお茶会の事も、ちっちゃいお嬢ちゃんが来てたのを覚えているわよと教えてくれました。
祖母が「娘(私の母)にお茶を教えてやってくれ」と頼んでいたのも、そういう背景があったのかと全てが腑に落ちたようです。

ご縁というものは本当に、本当に不思議なものです。

その場でその先生の社中に入門することを決め、翌月からせっせとお稽古に通い始めました。

幼少期はお点前しか学んでいなかったので、お茶の世界は何たるかという事を社中の先輩方からも現在進行形で教わっています。
一人でしかお稽古をしたことが無かった私にとって、世代の違う仲間とお稽古ができることはとっても特別で楽しく、自分が点てるお茶を人に飲んでもらう緊張感もあります。

幼少期は「自分に必要な場所」だったお茶は今では「ややこしくも奥深く、ハマってしまって抜け出せない世界」となりました。

おわりに

お茶を再開して五年ほどたった今年、「宗美」と茶名を拝受しました。
奇しくも、最初の師匠が亡くなった年、それもほんの直後の事となりました。

茶名をいただいたら施設に入っている師匠に報告に行くと決めていましたが、叶いませんでした。
私たちの知らない間に病院に入院して、院内でコロナに感染し、まもなく逝ってしまったようです。葬儀も家族だけで、お別れを言う事もできませんでした。

茶名など待たず、会いに行けばよかった。

面会ルールが厳しいとか、家族じゃないとか、何を話そうとか、忘れられていたらどうしようとか、そんなことを考えるばっかりで、地元に戻ってきたのに一度も会いに行っていませんでした。

師匠不孝な自分が情けないです。

だからせめて、こうして、会ったら話したかったことを、ここに残します。
いつになったら泣かずにこれを読めるでしょうか。


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こみか_離島で趣味暮らし
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