守りながら変えていく|私と麒麟山:長谷川良昭さん編①
こんにちは、つぐさけプロジェクトメンバーのあおきです。
実は、2月25日につぐさけメンバーで、日本酒の仕込みの一過程「出麹(でこうじ)」を体験してきました。
出麹とは、出来上がって締まった麹をくずしてかきまぜたり、均(なら)したり、線を引いて表面積を増やしたりして、麹を乾燥させるために行う作業のこと。麹さらし台は重いし、糀室(こうじむろ)は暑いし、麹をつぶさないよう台にキレイに並べるには繊細さも求められるしで、ひぃひぃ言いながらの体験になりました。
ところが、帰りがけに職人さんたちの様子を見ていると、私が10分かけてやっと終えた作業を、ものの1分ほどで終わらせているではありませんか。先ほどまで冗談を交えながら話しかけてくれた職人さんも、いつのまにか真剣な眼差しでテキパキ作業をこなしています。「職人、かっこいい……」とSPY×FAMILYのアーニャのように呟きつつ、麒麟山酒造の職人さんの仕事ぶりに興味が湧いてきました。
そこで今回は、麒麟山酒造の専務であり、杜氏を務めている長谷川さんにインタビューさせていただきました。前編では、麒麟山の歩みとともに培われた長谷川さんの「日常によりそったお酒づくり」へのこだわりについて、後編では、職人としての姿勢や今後の酒づくりへの考えを伺っていきます。
――本日はよろしくお願いします! 長谷川さんが杜氏として日本酒を仕込むようになって、どのくらい経ちますか?
杜氏になってからは14年目、酒づくりに携わるようになってから35年目になります。入社前は専業農家でしたが、麒麟山の伝統辛口(以下、「伝辛」)が好きだったこと、そして農業の先輩でもある先代杜氏から「蔵人として来ないか」と誘っていただいたことが入社のきっかけです。
最初の5年は、冬場の仕込み時期だけ働く蔵人(くらびと)になり、その後、社員になりました。営業で5年ほど経験を積んで製造部に配属され、酒造りの現場に立つことになりました。働きだしてから現在まで、結構苦労も多かったですね。
――そのご苦労について、お聴かせいただけますか?
私が入社した昭和63年は、新潟の地酒がブランドとして認知され、日本酒の売上が右肩に上がり始めた頃でした。全国平均は下がっていく中で、新潟の地酒は10年近くずっと売れ続けました。麒麟山酒造でも、生産量が2倍ほどに急増したんです。
――売上が上がるのは、喜ばしいことではないのでしょうか。
生産量が急激に増えた結果、季節労働の蔵人だけでは対応しきれなくなったんです。当時、正社員は杜氏だけで、あとは冬場だけ蔵人が働いていました。新潟県としても、「蔵人中心の酒造り」から、「正社員を育て、安定した日本酒生産」へと方針転換する時期を迎え、私も新潟県酒造組合が開く「新潟清酒学校」へ第10期生として入学し、酒造りを学びました。
――新潟県の酒蔵全体が、変革を求められていた時代だったんですね。
――長谷川さんは、社長のnoteにも書かれていた「奥阿賀酒米研究会」の発足にも関わられていましたか?
はい。研究会の発足当時、農家さんがつくられていた米は圧倒的にコシヒカリ。「地元産酒米での酒づくりをするために、メインの品種をコシヒカリから酒米に変更してほしい」とお願いするのは想像以上に大変でした。
新たに酒米づくりに取り組むことで、手間が増えてしまうのは否めません。例えば、コシヒカリと酒米が混ざらないように、機械のこまめな掃除が必要になります。また、酒米が実る時期はコシヒカリより早く、米好きなスズメに狙われやすいので鳥害対策も必要です。また、「そもそも酒米づくりの経験がないからどうしていいかわからない」という声もあり、最初は酒米づくりを敬遠される農家さんが多かったですね。
――社長からも、地元酒米100%を達成するまでには大変な苦労があったと聞きました。それでも、目標を達成できたのはなぜですか?
会長(先代社長)の「地元酒米100%の酒づくり実現のためには、研究会を組織化して、地域の農家をまとめなければ」という強い意志があったからだと思います。今でも、研究会員同士のまとまりがとても良いんです。目先のことではなく、「地元産米100%で酒造りをやりたいんだ」という麒麟山酒造の想いに共感してもらって始まるつながり。それが目標達成につながったと感じますね。
――自分たちが遂げたいビジョンを共有していたからこそ、強いつながりが出来たのですね。では、杜氏として13年お勤めになる中で、変わらず大切にしていることはありますか。
杜氏を任されている以上は、「伝辛の伝統」を守っていかなければと思っています。
麒麟山の代名酒である「伝辛」が生まれたのは、麒麟山酒造社長の5代目の時代、戦前・戦後のことです。米は配給制で、自由に酒がつくれない時代でした。その分、米ではなく糖分を多く使った甘口が多くなる中、先代は「酒は辛いもの」という信念を貫き、辛口の酒をつくり続けました。
どんな料理にも合わせられる、日々の暮らしの中で食卓を豊かにしてくれる日常の酒として、辛い酒を追求してきた麒麟山の姿勢や受け継がれてきた伝統を、私たちは守っていかなければいけないし、なんだろうな、守りながら変えていきたいと思っています。
――「守りながら変えていく」……相反するようですが、すごく興味があります。
長年愛されてきた「変わらない味」を守るために、毎年、みんなで必死に手だてを考え、変化を加えていくという意味です。たとえば、40年前と温暖化が進む今とでは気候も違い、仕込み配合や米の扱いも毎年微妙に変わります。昔のレシピを守るだけでなく、杜氏の経験値をフルに活かして変化を加えることで、ようやく麒麟山らしい風味になるんです。
麒麟山の酒にまつわる変革の時代のただなかにあったからこそ、守るべきものを的確に見極めている。そんな職人の在り方が、長谷川さんからは感じられました。
後編では、長谷川さんが働く上で大切にしていることや、米づくり大学に興味を持ってくださっている方へ伝えたいことを伺います。