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#56. 生きているうちに

人間は、いつか必ず死んでしまう。
それが決して避けられない真実なのに、私たちは毎日を当たり前のような顔で生きている。

私も、
大好きなあの子も、大切な人たちも──
すべての人が、いつかはこの世から去ってしまう。そんなことは頭で理解しているつもりだ。

けれど、心のどこかではまだ「わかったつもり」でいるだけで、深く実感していない自分がいることにも気づいている。




もし、もしも明日突然自分が死んでしまったら、私は何に後悔するだろうか?



もっとおしゃれなカフェでお高いケーキを頼んでみればよかった、とか、コンビニでちょっと贅沢して270円のおにぎりを買えばよかった、とか。公園を歩き回るだけじゃなくて、ただベンチに座ってぼんやり空を見上げてみればよかった、とか。あの日、母が握ってくれた塩おにぎりを、もう一度味わわせてもらえばよかったのかもしれない。

そんな、何でもない日常のなかでの些細な「我慢」や「後回し」。


本当はできるのに「今はいいか」と避けてきた、小さな行動の数々が、もしかしたら私の「やっておけばよかった」になるのかもしれない。

とはいえ、明日が来るのが当然だと思ってしまうのが人間というもので。

いつ死ぬかなんてわからない」と頭ではわかっていても、

「明日も普通に生きているだろう」と、
どこかで思い込んでいる。

でも、不意にその「当たり前」が崩れる瞬間が訪れる。



例えば運転中や新幹線に乗っているとき、
突然「もしも今、事故が起きたら……」と想像してしまう。

考えたくはないけれど、なぜかそういう「もしも」が頭に浮かんでしまう。

否応なく、私たちがいつも「死」と隣り合わせで生きていることに気付かされる。

私は介護の現場で、命の儚さに幾度となく直面してきた。

大好きだったおばあちゃんが突然体調を崩し、あっという間に亡くなってしまった深夜3時。

「また会おう」と思っていたおじいちゃんが、
私が訪れる前に旅立ってしまったこと。

優しかった伯父が自ら命を絶ってしまったこと。

私が心のどこかで「いつまでもそこにあるはず」と思い込んでいた存在が、気づけば消えてしまった。


私が「当たり前」だと思っていたことは、実は決して当たり前ではなかったのだ。絶対にあり得ないと信じていたことが、いつしか現実となる。私たちは何度もその現実に直面しながら、それでもどこかで「明日は必ず来る」と信じて生きている。


けれど、本当は「永遠」なんてない。
ほんの少しずつ、時間とともにすべてのものは姿を変えていく。


私の中で「いつかやろう」と思っていたことが、明日になれば叶えられないかもしれない。それが、現実だ。

だから私は、日々の些細な瞬間をもっと大切にしたいと思う。
何でもないおにぎりの味や、穏やかな空の青さ、母のささやかな優しさや、友達の温かな笑顔。それらを後回しにせず、今、味わい尽くすこと。


それが、私たちができる最も確かな生き方なのかもしれない。


明日はもう来ないかもしれない。
その覚悟を、いつもどこかに持っていたい。

会いたい人には、真っ先に自分から会いに行こう。

しんどい日には無理をせず、
お風呂に入浴剤でも入れながらゆっくり休もう。

たまにはちょっとした贅沢で買うおにぎりも許そう。

そうやって少しずつ自分と折り合いをつけながら、もしかしたらやってこないかもしれない明日を想像しながら、生きてみよう。

全てが愛おしいことを忘れないでいよう。



今はもうこの世にはいない、かつて大好きだった人たちが、
もし私を見守ってくれているのだとしたら──

その人たちの温かなまなざしに包まれながら、
私もまた、自分の命を一日一日、大切に愛おしんで生きていこう。


その人たちが生きた証を胸に、私も彼らに恥じないよう、そしてその愛に応えるように、この瞬間を、惜しみなく味わい尽くしていきたい。

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