
#78. 生きづらさというもの
忘れ物だらけの子供時代
私はどうにも忘れ物が多い人間だ。
小さい頃からその癖は治らず、学校生活では散々苦労したけれど、当時は周りの助けがあったおかげで何とか乗り越えてきた。
教科書を忘れる、宿題を忘れる、筆箱を忘れる、体操着を忘れる――まあ、その程度ならまだしも、制服の上だけ着てスカートを履かずに登校したことも何度かある。
笑い話になりそうだが、当時は顔から火が出るほど恥ずかしかった。それでも、友達が笑ってくれたり、物を貸してくれたりしたおかげで、何とか切り抜けられてきた。
大人になって、助けが消えた世界へ
けれど社会人になってからはそうもいかない。忘れ物の尻拭いをしてくれる人はいないし、責任を取るのは当たり前だが、すべて自分。
ショックやダメージを引きずりながら、それでも自分で何とかするしかない。
たとえば友人のプレゼントを買ってそのままトイレに置き去りにしたり、映画を観に行ってスマホを忘れて帰り、翌朝まで連絡が取れない状態に陥ったこともある。
中でも、車で出かけたのにそのことを忘れ、徒歩で家に帰ったときは、さすがに自分の記憶力を疑った。家と店の往復に合計2時間かかり、車に再会したときには、自分への呆れを通り越して笑うしかなかった。
そんな私だからこそ、日々の忘れ物対策は怠らないように気をつけている。
たとえば、買い物リストは、メモ用紙ではなくスマホにメモして、忘れないようにチェックしている。
なぜならメモ用紙では、高確率で忘れてしまうからだ。
とはいえ、そのスマホを忘れてしまうこともしばしばあるので、もはや対策も穴だらけだ。
お店に車で向かった後は、車を駐車した場所を忘れないようにと、友人のアドバイスで写真を撮るようになった。
周囲の人には「何を撮ってるんだろう?」と不思議そうな目で見られるが、最近では気にならなくなった。慣れとは恐ろしいものである。
そんな努力を重ねても、忘れ物センサーは一向に収まることを知らない。レジで支払いを済ませた後、商品をそのまま置き去りにしてしまったことは数えきれないし、スマホをカゴの中に入れたまま返してしまい、店中を探し回ったこともある。
買い物ひとつするにも、忘れ物を巡る戦いがついてくる。
日常生活も同じ。洗濯物を回して干し忘れたり、電子レンジに入れた食べ物を翌日まで放置してしまったり。
家の鍵を何度無くしたかわからないし、買ったはずのものを忘れて同じ商品を何度も買うこともしばしば。そのせいでメガネが5本あるはずなのに、今手元には1本も残っていない。
「完璧」なんて目指さなくていい
自己管理能力が低いのか、それとも何か根本的な問題があるのか。
正直、考えたくもあるけれど、考えたくない。知りたいような、知りたくないような、その狭間で揺れているうちに、いつの間にか大人になってしまった。
でも最近、ようやく思うようになった。
「完璧を目指すのは、もうやめよう」って。
忘れ物が多いのも、鍵をなくすのも、百点満点の人間になれないのも、それが私だ。
この自分と一生付き合っていくしかないなら、少しでも楽しく生きてやろうと思う。
そう思えるようになって、心が少し軽くなった気がする。
生きづらさ=生きているということ
生きづらさを抱える人が多いこの世の中で、
生きやすいと思いながら生きている人はどれだけいるのだろう?
きっと誰だって、何かしら生きづらさを抱えて生きている。
この世に「完璧な人間」なんていないのだろう。世界的美少女だって、世間の嫉妬や批判に耐えているし、職場でバリバリ働く上司だって、家ではひとり悩んでいるかもしれない。
完璧な人間なんていない。
私たちが勝手に作り上げた幻だ。
だから、生きているだけで十分じゃないか。
迷惑をかけたり、かけられたりしながら、不完全なまま歩いていく。それでいい。
忘れないように、日々を綴る
そんな風に、諦めにも似た感情にちょっとだけ希望を詰め込む。
明日は忘れ物をしないようにしよう、と毎晩思いながら寝ることも、
ちゃんとしなきゃ、と言い聞かせて生きることも、少しずつでいい。減らしていこう。
そう自分に言い聞かせながら、今日も買い物リストをスマホにメモする。
今日あった出来事も、悩んだ日々も、
全て忘れてしまう前に記録しておこう。
生きづらさがあって良かったと思えるように。全て思い出に変えていくような気持ちで。
そうして今日もまた、noteを綴る。