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夕色純喫茶

 鏡に映る窓の水滴が濁って見えます。これは死に化粧だなと彼女は苦笑いをして洗面台から離れました。思えば今の会社に入った日も雨だった気がします。ずっとやりたいと願っていたはずの仕事が一日ごとに色あせて、いつしか彼女の朝は光の届かない暗い水の底から始まるようになりました。息継ぎさえままならない日々。夕焼けを恋しく思いました。彼女のオフィスは地下で、夕日も届かなかったから。
 学生の頃は毎日のように通った近所にある純喫茶からも足が遠のいていました。今日こそは行こう。彼女はビニール傘の柄を握りしめて、家を出ます。重い雨音が彼女を責めました。午後四時半とは思えないほど黒々として見えるアスファルトの道を歩きます。錆びた紅い欄干の橋を渡るさなか、何度目かの電話が鳴りました。また会社からです。彼女は水嵩の増えた川へスマートフォンを投げ捨てました。

 雨が弱々しくオレンジ色に灯っています。純喫茶の明かりでした。冷たく濡れた傘を畳み、彼女は真鍮の丸ノブを回します。懐かしい珈琲とカレーの香りに彼女は包まれました。久しぶりとも言わず店主は黒縁メガネの奥から彼女を見ると、顎でいつも彼女が座っていた席を指します。変わらない店主に彼女は吹き出しました。窓ぎわの席につくと注文するまでもなく運ばれてくる珈琲。ミルクも砂糖もなし。
 雨の平日とあって、店内には彼女と店主と店の猫しかいません。水色のペンキで塗られた壁には相変わらずたくさんの写真が掛けられていました。店主が奥さんを亡くしてから撮りつづけている写真です。他の常連客から彼女はそう聞きました。珈琲を飲みながら、彼女は写真を一葉ずつ眺めます。すべて夕焼けの写真でした。終わりを彩る夕日は、きっと奥さんへの手向けなのだろうと彼女は思います。

 彼女にとってそれは最期に必ず見たかった夕焼けでした。紅い欄干を乗り越える恐れも、濁流が喉に詰まる苦しみさえ、夕日が美しく包んでくれることでしょう。珈琲に揺れる橙色の電灯も、夕焼けのように彼女の終わりに華を添えてくれます。残る苦い西日を飲み干して、そばに近寄ってきたトラ猫の背を彼女は撫でました。「きれいな夕焼けですよね」と写真を指さす彼女の声は、わずかに震えています。
 店主は黒縁メガネをゆっくりと前掛けで拭いました。再びメガネを掛けた店主はめずらしく彼女の目を見すえます。トラ猫は彼女を引き止めるかのように膝の上で温かく丸まりました。「おかわりは」と店主に勧められたのは初めてのことです。もう行かないと。そう言いながらうつむいた彼女の向かいの席に店主は腰を下ろしました。柱時計の鐘が午後六時を告げます。鋭い雨音が遠のいた気がしました。

 トラ猫を彼女が撫でるように、店主は彼女に語りかけます。妻が亡くなった日のこと。霊柩車に棺を運ぶときには重かった身体が、燃えてしまってからはあまりに軽く感じられたこと。妻の愛したカメラで写真を撮るようになったこと。ときには言葉を詰まらせながら、店主はまだあまりに若く見える彼女を引き止めます。トラ猫は静かに寝息を立てて眠っていました。彼女は顔を上げられないままでいます。
 店主は、つづけます。「終わりは始まりとよく似ている。こいつらは」と店主は壁の写真を顎で指します。彼女は顔を上げます。橙色。茜色。黄色。桃色。朱色。一葉、一葉が異なる色合いをした写真たちが彼女の瞳に焼きつきました。「夕焼けじゃない。朝焼けさ」。オレンジ色の電灯に染まったひと雫が、彼女の死に化粧をやさしく溶かします。頬に流れる透きとおった雨は輝きました。朝焼けのように。






ショートショート No.392

photo by Kosuke Komaki

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