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大阪市の神社と狛犬 ⑪中央区 ⑩大阪城公園~天津市政府から略奪された中国獅子~

大阪市中央区の地図と神社

大阪市には、現在24の行政区があります。中央区は、かつての東区と南区が合区となって1989年に発足した新しい区です。大阪市のほぼ中央にあり、上町台地とその西側の地域になります。この区には、大阪府庁などの官公庁街、船場と呼ばれる商業街、ミナミと呼ばれる繁華街などに加えて、大阪城や難波宮跡などの歴史的建造物もあります。

中央区には、生國魂神社行宮を含めて11社の神社があります。さらに、神社ではありませんが、大阪城公園内に明代の中国獅子があります。今回は、この中国獅子を紹介します。

の場所に中国獅子がある

中国獅子(石獅)

■制作  明代(1368~1644)
■作者  不明  
■材質  白玉石(大理石)
■設置  大阪城公園京橋口付近

大阪城公園の中国獅子と天守閣

大阪城公園は、今でこそ大阪の代表的な観光地であり、市民の憩いの場でもあるが、かつては砲兵工廠や陸軍第四師団司令部が置かれていた。
この大阪城公園に、やはり先の戦争と深い関わりのある石造の中国獅子像がある。公園の北西側、追手門学院の方から外濠を渡って京橋口から公園に入り、右手に折れたところに、天守閣を背景として、高さが約3mある白玉石(大理石)製の二体の獅子像が安置されている。
すぐ前の案内板には「こま犬」と記されており、「日中戦争の最中に日本に運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形の東付近に置かれていた」と説明されている。また案内板の向かい側の獅子のそばには、「中日友好萬古長青」と刻まれた御影石の記念碑がある。

「こま犬」案内板

これは「中国・明の時代の文化遺産」とあるように、明らかに中国獅子である。日本発祥の「こま犬」と呼ぶことには賛成できない。

中国獅子A
中国獅子B
中国獅子A

大理石製の堂々たる中国獅子だが、なぜこれが大阪城公園内に置かれているのか。案内板には簡単に「日中戦争の最中に日本に運ばれ」と書かれているが、それには次のような経緯があった。


天津てんしん市空襲

昭和12年(1937)7月7日、中国北京の西南方向にある盧溝橋で、日本軍と中国国民革命軍との間に衝突事件が起きた。いわゆる盧溝橋事件である。これを契機に、日本は大きな戦争に突入していく。中国との戦争は、現在では「日中戦争」と呼んでいるが、私が子どもの頃は「支那事変」といった。
戦争は瞬く間に拡大し、7月29日には天津市を爆撃する。天津市政府前に安置されていた中国獅子は、台座ごと吹き飛ばされてしまった。その後日本軍は、これを戦利品として日本に持ち帰ったのである。

天津市政府爆撃を報じた朝日新聞の号外(昭和12年7月30日)


支那事変聖戦博覧会

日中戦争(支那事変)が勃発した翌年の昭和13年(1938)4月、西宮球場で、支那事変聖戦博覧会が開かれた。この年は国家総動員法が制定された年で、新聞の紙面には毎日のように大陸での華々しい戦果が掲載された。
昭和6年(1931)の「満州事変」以後、新聞社主催の国策と戦果を競う博覧会が流行し、この「支那事変聖戦博覧会」も大阪朝日新聞社が主催して、陸海軍両省の後援を受けて2ヶ月に渡って大々的に開かれた。目的はもちろん「聖戦」の名のもとに国策を振興し、国防精神を鼓吹して、国民に「非常時」を実感させることにあった。

人々を圧倒するには巨大な見世物が効果的である。博覧会の入り口に通ずる道には占領した「南京市政府楼門」がそっくりそのまま再現され、「高さ八尺の天津市政府の狛犬」も訪れた人々を驚かせた。

「支那事変聖戦博覧会」の新聞記事( 昭和13年4月17日)


再び、大阪城公園内の中国獅子

さて、このような経緯をたどって日本にもたらされた明代の中国獅子であるが、「支那事変聖戦博覧会」で展示された後、大阪城内の陸軍兵器支廠に送られて、その門前に飾られたという。その後は長らく山里曲輪くるわの姫門跡の石垣の上に置かれていたらしい。現在地に移されたのがいつかは不明である。
博覧会に展示された当時の着色などもすべて消え、長年の風雪と悲惨な戦争に耐えてきたせいか、鑿の鋭さは失われている。しかし、どっしりとした威厳ある風貌はいささかも衰えていない。

中国では大理石や花崗岩などの石で造った獅子を「石獅」と呼んでいる。この石獅は、北方系の北獅と南方系の南獅に分類できる。大阪城公園の中国獅子は、天津市政府に置かれていたという出自からもわかるように北獅である。北獅はいかにもどっしりとした体躯と威厳のある表情が特徴で、中国天安門前に安置されている明代の石獅子はその代表的なものと言われている。

中国獅子A 後ろ姿

今度は後ろ姿を眺めてみることにする。頭を90度曲げて正面を向いていることがよくわかる。頭髪は左右とも仏像の螺髪のようにくるくると巻いている。背中の脊柱線に沿って尻尾の付け根まで、背骨を表す円形の模様が八つある。その左右にある波打つような模様は、飾帯を結んだ端がリボンのように背中に流れているのだろう。尻尾は三つに分かれた蕨型で、さほど大きくはなく、顔と同じ方向に斜めになっている。左右の獅子は、口を開けた阿形であることも含めて、姿も模様もすべて対称的である。唯一の違いは、左獅子(向かって右側)が子取り、右獅子(向かって左側)が玉取りであるという点だろうか。

この中国獅子は「戦利品」であったことから、中国への返還を求める市民運動が起こったこともあった。しかし、昭和59年(1984)に改めて中国政府から大阪市に寄贈され、日中友好の象徴として現在の場所に置かれるようになった。

「中日友好 萬古長青」の碑


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