いざ陣屋
多くのタイトル戦が開催される宿では、歴史的瞬間が幾度となく訪れる。将棋四百年の歴史の中で、我々は数々の棋譜から、観戦記から、そして最近ではネット配信からその状況を手に取るように見てきた。見てきたからには行ってみたい。それが聖地巡礼。
かねてより陣屋は将棋ファンの憧れの的だった。
数々のタイトル戦開催地として名を馳せたほか「陣屋事件」など将棋史に残る対局場でもある。そして何より最近の将棋ファンの間では、ここでしか食べられない『陣屋カレー』がとにかく美味しいと語り継がれてきた。
最近の「将棋めし」は現地大盤開設会場で売り出されたり、期間限定で販売したりと将棋ファンの心と胃袋を満たしてきた。しかしこの『陣屋カレー』は宿泊した客のルームサービスでしか注文できないのだ!
※現在は『陣屋カレー』『伊勢海老カレー』を部屋の夕食で食べられるプランがあります。
それならば神奈川県鶴巻温泉駅から徒歩数分という好立地、すぐにでも行けるだろう。しかし、陣屋は素晴らしいおもてなしで有名な宿……庶民の財布だと気軽に一人で行けない高嶺の花なのだ!しかし、ある将棋ファンのnoteを読んで、我々の陣屋への思いは高まっていった。
泊まれるの?泊まりたいけど……お高いんでしょ?
「一人で行けないのなら、みんなで泊まって人数割りにすればいいんじゃない?」
ある日、庶民を味方するマリー・アントワネットが颯爽と現れ、早速人が集まり、何やかやありつつも陣屋へ出陣する運びとなった。持つべきものは棋友である。
陣太鼓に迎えられ
日程を考慮し、約6か月後の夏の閑散期に私たちは陣屋を予約した。毎月五千円ずつ貯金し、計画的に宿泊できると思えば怖くない。
(ちなみに私に関して言えば、別記事のダナン聖地巡礼と同じ週だったため無計画だった)
後述する「陣屋事件体験ツアー」をしながら、いざ『元湯陣屋』の前に立つと、スタッフの方が陣太鼓を打ち鳴らして出迎えてくださった。
足を踏み入れる前からの高揚感!
この陣太鼓も「陣屋事件」での出来事を契機に生まれたらしい。現在にして将棋の歴史を味わえるのもまた格別だ。
スタッフに導かれて一万坪の庭園の説明を受けて庭園を歩くと、小川のせせらぎが聞こえてくる。池には錦鯉が泳ぎ、旅館へ向かうだけで自然を堪能できる。
しかし、将棋ファンの目の付け所は違った。
「ここ、中継動画で見たことある!」
「中継ブログの散歩でも見た!!」
幾度となく画面越しで見てきた風景がそこにはあった。九月初旬とはいえ外気温は30度後半だが、吹き抜ける風は気持ち良い。夕方に散歩に行く約束をして、まずはチェックインをする。
「ウェルカムドリンクが抹茶だ……お茶請けのマスカット大福は、もしや永瀬王座(当時)の頼んだおやつでは?」
俄然色めき立つ将棋ファン。
そして手続きをするために座った待合スペースでも、我々の度肝を抜いた。タイトル戦を訪れた棋士の揮毫の数々。一番目立つ壁には、最新の王位戦で書かれた永瀬王座と藤井七冠の揮毫が飾られていた。
泊まった部屋は「早蕨」という、二間の部屋。非日常を味わうために、テレビはない。広縁に座ると緑豊かな庭が臨める。
「内風呂のドライヤーがダイソンだ!」
「アメニティがmarks&webだ!!」
急にざわめく我々。国産高級ドライヤーが設置されているホテルは何度か泊まった事があるが、ダイソンドライヤーは初めてだ。それだけで宿泊する場所の格を感じて慄いている。頑張って毎月五千円貯金して良かった。
ちなみに、山荘露天風呂と内湯&庭園露天風呂にもダイソンが設置されていた。一泊二日ですべての温泉を堪能したので、お肌はしっとりつるつるになった。
これが噂の将棋めし
各々温泉を堪能し、社会人の疲れを癒していると夕食の時刻になった。今回の宿泊プランは朝食しか付けていないので、夕飯はルームサービスにしている。
じっくり煮込んだスパイスが効いたカレールーと、噛み締めると口の中でとろけるビーフ。米粒がピンと立ったご飯とよく絡み、じんわりと口福が広がる。
また、トッピングや薬味が別皿に添えられ、少しずつ足すとまた別の風味になり、スプーンを持つ手が止まらない。食レポはできない、我々は「美味しいねえ」と時々口にする以外は、ひたすらカレーを口に運んだ。
「美味しいねえ……」
そして追撃が始まる。夏季限定のかき氷を注文。
美味しい美味しいと言いながら、皆でカレーとかき氷を胃袋に収めたのだった。
朝食会場も見覚えが
朝も温泉にしっかり浸かった後に、朝食付きプランだったので会場へ向かった。広い館内も何度も足を運ぶと、覚えてくるものだ。覚えたころにはもうチェックアウトの時間が近づいてくるものだが。
何故人は旅館だと朝ご飯をたくさん食べてしまうのだろう……そう言い訳しながら、源泉水で炊き上げたご飯をおかわりし、三杯も食べてしまった。一枚ずつ炙る海苔も、ちょうどいい塩梅の味噌汁も、たくさんのおかずも、何もかも美味しい。
名残惜しいが朝食をすべて平らげ、私たちは会場を後にした。
最後に、もう残り時間わずかな陣屋の庭園をしっかり見納めながら。
対局室『貴賓室・松風』
今回は取材ということで特別に『松風』を拝見することができた。
対局室で有名だが、なんとここも宿泊することができるのだ!
もともとは旧黒田藩が大磯に構えていた別邸に明治天皇をお迎えする為に、特別に作り上げた部屋を移築したという、由緒ある客室である。
タイトル戦こぼれ話を伺いながら、対局者や関係者の方々への細やかなサービスが、こうして将棋ファンや囲碁ファンに長く愛される憧れの宿になるのだと感じた。帰りの陣太鼓を聞きながら「また泊まりにこようね……」と囁きあう将棋ファンであった。
次は、夕食付きで!
行ってよかった、盤外編
①旅館光鶴園跡地(陣屋事件体験ツアー)
そのまま元湯陣屋旅館に直行しても良かったのだが、せっかく鶴巻温泉まで足を延ばすのだからとランチを食べるところや観光地を探してみた。
そもそも、将棋ファンには有名な「陣屋事件」の事をちゃんと調べることにした。
事件の詳細についてはさらにホームページを読み進めればわかるが、ここで近所に「光鶴園」という旅館もあるはずだ。色々調べると、すでに光鶴園は無く、跡地が秦野市公営の「弘法の里湯」という日帰り温泉施設にリニューアルされているようだ。
陣屋に行く途中に立ち寄れる場所にある。実際に行くとわかるが、本当に陣屋から近い。
正しく陣屋事件体験ツアーをするなら「陣屋→光鶴園(弘法の里湯)」の順で行かないといけないが、陣屋のスタッフさんが宿泊客だとわかると陣太鼓を打ち鳴らしてお出迎えされるので、史実と違うが逆走するしかない。
もし陣屋で大盤解説会に参加するなら、途中で抜け出して庭園を散歩した後に足湯でリフレッシュし、また戻って次の解説を楽しむというのも出来そうだ。
②白笹稲荷神社
中継ブログにも放送にも全く出てこないが、鶴巻温泉から2駅先にある秦野にある神社。チェックインの時間前に少し観光しようと見つけたが、意外な関連があった。
陣屋には旅館の裏手に稲荷神社があるのだが、こちらの稲荷神社の御札が祀られていたのだ!
聖地巡礼、せっかくなのでもう一歩踏み出すのも、また楽しい。
(執筆者:カル)