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明るい未来のため「農業」は「産業」に生まれ変わろうとしている

大潟村ができて60年になりますが、60年前は東京オリンピックと、東京と大阪を結ぶ新幹線が開通し、日本が高度成長期に入った年です。
そして60年前は、日本農業の第一次産業革命の年でもあります。

それまでの米作りは、牛や馬で耕耘、代かきをし、手で苗を植え、手で稲を刈り、はざかけして乾燥しておりましたが、牛や馬がトラクターに変わり、手植えが田植え機に変わり、手刈りがコンバインに変わり、はざかけが乾燥機に変わりました。
農業の機械化に併せて米の多収獲栽培の勉強会が全国の農業地帯で開催され、たちまち日本人が1年間に食べる量を超える生産ができるようになりましたが、今度は米余りが農業の最大の問題になりました。
55年前から米余り対策として減反政策が開始されましたが、米を作らないという政策が長く続いたため、日本の米作り農家から米を増産するというDNAがすっかりなくなったのではないかと心配しているところです。

そして、減反政策が始まって55年後の昨年、令和の米騒動と言われる米不足になり、米不足は年が明けた今も続いております。

平成5年のような凶作でもないのに、なぜ米不足になるのかと、私も不思議に思っておりますが、最近聞かれるのは、国が考えていただけの栽培面積がなかったのではないかということです。
加工用米、備蓄用米、飼料用米には国の補助金が交付されるため、作付面積は正確に把握されますが、主食用米には補助金が交付されないため、作付面積が正確に把握されていないのではとのことです。
生産者は、半世紀以上続いた減反政策に合わせた設備のため、急に稲作面積を増やすと言われても多額の資金が必要となり、田植え機、コンバイン、乾燥機等の設備を増やせないでおります。

また、人手不足、後継者不足のため、農業をやめたいという農業者が多く、現状の生産水準すら維持できなくなっております。
そんな農業環境の中でも、地域の農業を何とかしたいと考える農家も現れてきたので、協会ではそのような農家と連携することで、地域農業の維持と発展に取り組みたいと考えており、そのための第一歩として、大潟村以外の農業法人との連携を始めております。

大潟村の農家は、入植と同時に始まった減反政策により、大潟村周辺市町村の農家との関係性は微妙なものがありましたが、入植から半世紀以上経つと価値観も変わり、協力できることは協力しようと新たな関係性も生まれてきました。
過去のわだかまりを捨て、未来に向けて前に進むことで、新しい世界が見えてくるのではと考えているところです。

農業だけでなく、あらゆる産業が改革に取り組むには、これ以上衰退したら再生できなくなる、との危機感を持った時に初めて改革ができるのではないでしょうか。
全国の農業地帯は人手がなく、後継者もいないため、基盤整備を行い、ロボットを使わなければ、農業生産を維持できなくなっております。

今までの農業を維持しようとしたら、農業は衰退していると感じるかもしれませんが、家業としての農業から、産業としての農業に生まれ変わるための、生みの苦しみの時ではないでしょうか。
「夜明け前が一番暗い」と言われますが、農業も明るい未来が近くにきているのではないでしょうか。

令和7年2月
大潟村あきたこまち生産者協会
涌井 徹