呪われながら生きること(舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』感想)
舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』@TBS赤坂ACTシアター、2022年7月上旬観劇。
座席は2階席の前方、センターあたり。
半年以上前に観た舞台の感想を今書くという奇行っぷり。しかし、新キャスト発表もあってまた観たい気持ちが高まってきたので、覚えている範囲で書くことにする。
期待を裏切らない『ハリー・ポッター』ワールド
予想以上におもしろかった!
キャストや演出、美術がすばらしいのももちろんあるけれど、まず脚本からしておもしろいと思った。さすがJ・K・ローリング。
『ハリー・ポッター』シリーズっておもしろいんだった、ということを思い出した。
ちなみに私は原作小説の翻訳版は発売当時に読んでいて、映画も公開当時に観ていたので、シリーズ本編の内容はざっくりとは覚えていた。今作の『呪いの子』については、「ハリーたちが親世代になってからの話」くらいの知識のみで観劇。
観てみるとやはりシリーズ本編に絡めた物語ではあったので、「セドリック・ディゴリー」と聞いて「誰?」と思う人は、映画だけでも予習しておくといいのかなと思う。とはいえ、劇中の会話でわりと説明してくれるので、もしかすると予備知識なしでも楽しめるかもしれない。
私が観に行ったのは、ハリー役が藤原竜也さんだった時期。身内や友人たちに「舞台ハリポタを観に行く」と話すと「藤原竜也観るの?いいな〜!」と必ず言われるという、すさまじい人気ぶり。私としても、彼を舞台で観てみたいというのが今回の観劇理由の1つでもあった。
そして実際に観た藤原竜也さん、イメージ通りの藤原竜也さんだったのだけど、「藤原竜也」のままでハリー・ポッターとして成立しているのがすごい。映画版『DEATH NOTE』の「藤原竜也だけど夜神月」と同じ現象を見たという感覚。すごいな、この人。
あと、他のキャストも含めてそういう演技指導なのか、初っ端からものすごく早口だったのだけど、滑舌がよくてセリフが聞き取れないこともなかった。
ハリー以外のキャストももれなく全員すばらしく、さすがオーディションで選ばれたメンバーだなあと思う。
アルバス役の福山康平さんは、怒りをぶつけたり落ち込んだりする感情表現が豊かで、藤原ハリーの息子という説得力がすごい。
スコーピウス役の斉藤莉生さんには登場シーンから心を掴まれた。第一声と挙動から「気弱でクセは強いけれど、優しくていいやつ」というスコーピウスの人柄がすっと入ってきた。
個人的にものすごく好きになったのが橋本菜摘さんのローズ。小柄なのに存在感があって目を引かれた。利発そうでありながらチャーミングな役作りも魅力的。
デルフィー役の岩田華怜さんもよかった。見せ場は2幕だと思うけれど、1幕の時点で台詞回しや立ち振る舞いの巧みさが光っていた。
そして美山加恋さんの嘆きのマートルは、映画からそのまま出てきたような完成度。身体表現もうつくしい。
と、書いていくとキリがないのでこのへんにしておくけれど、キャストのみなさんの好演が舞台のクオリティをグッと底上げしていて、かといって「この役はこの人じゃないと」ということも良い意味で感じず、他のキャストでも観てみたいと思わせる舞台だった。
舞台美術や演出については、いかにもファンタジー!というド派手さはあまりなく、そのあたりも作品の世界観をていねいに引き継いでいる印象を受けた。魔法が当たり前に存在する世界という土台がある上で、人間ドラマをしっかり見せてくれる。映像に頼らないところもよかった。
特筆すべきは1幕ラスト。驚かされたし恐怖すら感じた。2階席だったのがかえってよかったのかなとも思うけれど、あの演出はいろいろな席で観てみたい。
この舞台を観に行く前までは、正直ハリー・ポッターシリーズへの熱はそれなりに冷めていて、自分の中では「昔好きだった作品」という位置に落ち着いていた。
だからこそ大人になった今、こんなにもこの世界に没入できたことが嬉しかったし、「児童文学」というカテゴライズはもはや不要である、という力強さをあらためて見せつけられた気がした。
私と同じように、紙で指を切ったりしながらも夢中でページをめくっていた、かつて子どもだった人たちに共有したい。あの世界がまだ続いていて、今でも私たちに魔法をかけてくれることを。
※以下、ネタバレありの感想や考えたことなど、自分用の記録。1公演しか観ていない上、半年前のことなので記憶違いがある可能性が高い。
親になったハリー・ポッター
ハリーの息子・アルバスをはじめ、子ども世代が中心となる本作。7巻ラストで親になったハリーたちがちらっと描かれているけれど、どんな大人、そしてどんな親になったのかは今回はじめて知ることになる。
ハリーについては、良くも悪くも「ハリーだなあ」という感想で、親という点では悪い面が浮き彫りになってしまった気がする。劣等感に苦しむアルバスが「父さんが僕の父さんじゃなかったらよかったのに!」と思わず口にしてしまったとき、「僕もおまえが息子じゃなかったらいいのにと思うことがある」と返していて耳を疑った。いやいやいや、親が子に言ってはいけないセリフ大賞かと。本心ではないにせよこれはひどい。
子どものころ小説を読んでいて、ハリーに対して若干イライラするところがあったのを思い出してしまった。今思えばハリーはもともと言葉選びがへたくそというか、コミュニケーションの上では不器用なタイプなんだろうなと思う。それにしても、さすがにこの失言には「そういうところだよ!」と心の内で叫ばずにはいられなかった。親になってもそのあたりが変わらないものだなあと。ハリーがそんな感じなので、親としてのドラコがものすごくまともに見えてくる。
ただ私は、ハリーを強くて優しい完璧な主人公像に当てはめないところもJ・K・ローリングの良さかなと思っているし、今作でもハリーを変に美化していないところがむしろよかった。親に育てられていないハリーが、親としてうまくふるまえないのは理解できる。子とともに親も成長していく、むしろ子に親が育てられるという親子のあり方があっていいと思う。
アルバスも成長とともにハリーの強さも弱さも客観視できるようになるだろうし、正しい親子の形というよりは、宿命のもとに生まれたもの同士、戦友のような関係にもなれるのではないか、と勝手に思ったりもした。
過去を変えるという禁忌
今回の物語で重要な役割を担うのが、タイムターナーこと逆転時計。魔法で一時的に過去に戻れるというもの。3巻の『アズカバンの囚人』では、ハーマイオニーが同じ時間帯の講義を複数受けるために使用していた。
このタイムターナーの美術と演出も見どころの1つ。時間を動かすたびにぐわんと揺れるようになるのが不思議だった。
さて、なにかしらの方法で時を戻すというのはファンタジー作品にはありがちで、たいてい「過去を変えるのは禁止」というルールが課されている。過去を変えてしまった場合は、変えた先の未来がより悪くなるというのが定石で、今作も例に漏れない。
過去に戻ってセドリックを助けようとするアルバスとスコーピウスだけれど、人の生死に関与するのはご法度中のご法度。タイムターナーを使うたびに状況は悪くなり、ついには闇の魔法使いを復活させてしまう。
「過去を変えてはいけない」と悟るアルバスだけれど、これはすごく残酷なことだと思う。人が死ぬことがわかっているのに救えない。魔法をもってしてもできることがないという無力感。
その残酷さがさらに色濃く出ているのが、ハリーが両親の最期に立ち会うシーンで、ここでのハリーの慟哭は観ているこちらもかなり苦しいものだった。
過去から目を背けないことが生きるために必要だというのなら、それはとてもつらいことだと感じてしまう。でも、親になったハリーにとって、自分の両親の死に向き合うことはきっと重要な意味をもつ。ハリーにも、「みんなで見る」ことを選ぶ家族や友人たちにも、今の自分には持ち得ない強さを感じた。
呪われながら生きること
結局、タイトルに入っている「呪いの子」とは誰のことだったのだろう。
それはきっとアルバスでもあり、スコーピウスでもあり、デルフィーでもあり、そしてハリーでもある。もしかすると、観客を含めた誰もが「呪いの子」なのかもしれないと思う。
有名な〇〇の子どもであること、優秀な人間であること、出来損ないであること、いつも明るくポジティブな人であること、控えめであること、ふつうであること。
人からかけられる、そんな呪いは強い力をもって人を縛りつける。魔法使いではない、いわゆるマグルの私たちでも、そういった呪いは簡単にかけることができてしまう。
自分にかけられる呪いには鈍感になるのが身のためだと思う一方で、自分が人にかけうる呪いには敏感にならなくてはと思う。でも人は実際にはその逆で、日常的に無意識に人に呪いをかけてしまっている。そして呪いをかける対象は、他でもない自分だったりもする。
ハリーたちを観ていて、呪いを解くのもまた人であると感じた。立場だとか血筋だとか偏見だとか、そういったしがらみを取り除いて、人が人として向き合うとき、はじめて人の本質に触れられるのかもしれない。楽ではないし痛みも伴う、そうしたやりとりを繰り返す中で、少しずつ呪いが解けていくのかもしれない。
自分が何者であるかなんて、きっと一生かけてもわからない。それでも、呪いをかけたりかけられたり、それを解くために四苦八苦したりしながら、自分として生きていくしかない。
呪いが完全に解かれる日なんて来ないかもしれないけれど、なにかしらの宿命を背負いながら、生きていくしかないんだなと思った。