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【掌編】聖人式

 聖人式ーー

 それは、新たに社会進出していく聖人たちの背中を押し、祝福する式典のことである。

 ここ聖人の国では、今年も多くの新聖人らが国立大聖堂へ一堂に会し、めでたく2025年度の聖人式が粛々と執り行われていた。

「それでは続きまして、当国国王より、新聖人へ向けての祝辞を頂戴いたします」

 司会者がアナウンスすると、聖人の国の現君主である剛玉ごうたま・“yes”・ムハンマドが、金の冠と純白の法衣に身を包み、会場前方中央の説教台に登壇した。

「オホン……。えー、新聖人の皆さん、本日はお日柄もよく、新聖人としての門出には大変ふさわしい日となりました。これというのも、皆さんの常日頃の行いが良いことの揺るぎない証でありましょう。えー、皆さんは、本日を境に立派な聖人として社会へ羽ばたいていくわけですが、それにあたっての心構えは万全でしょうか。聖人になるということは、文字通り羽ばたくことーーすなわち、空中を縦横無尽に飛び回ることが可能になるということです。言い換えれば、水の上だってスイスイ歩けるし、また火の上だって涼しい顔で歩けるということです。いえ、何なら嵐も鎮めることだって出来るし、ロスの山火事だって瞬時に消すことが出来るわけです。また、その辺の石ころをパンに変えることだって出来るし、スーパーやコンビニで売ってる山◯パンのような添加物たっぷりの猛毒パンを、グルテンフリーで天然酵母由来の無添加ヘルシーパンに変えることだって可能なわけです。あるいは、コロナだインフルだと恐怖を煽り、注射器を用いて人体にマイクロチップや寄生虫の卵を注入し、老化を促進したり血栓が出来やすくしたりというような殺人医療の力を借りるまでもなく、それこそ手をかざしただけで瞬時に人々の病や怪我を癒すことだって可能なのです。その、凡人にはゆめゆめ使うことの出来ない人並み外れた能力こそが、まさに古今東西、選ばれし聖賢のみに与えられてきた特権であり、秘伝なのであります。皆さんは今日この日を境に、これからはその能力を自在に使うことが許されるわけであります。したがって、ぜひとも聖人としての自覚を持ち、おおいに胸を張ってこれからの人生を勇往邁進していただきたいと願います。思い起こせば皆さんのこれまでの人生は、十で『神童』、十五で『才子』と誉めそやされ、まさに人も羨むような順風満帆なものであったことでしょう。しかし、その裏には紛れもなく、皆さんの弛まぬ努力と並々ならぬ勤勉があったことと想像します。それは取りも直さず、常に智徳をみがき修養を積み、世の人々に真理を説き、いざ光の世界へ導かんとする気高い理想があったからこそ成し得た賜物たまものであると言ってよいでしょう。皆さんにはこれからもその調子で、どうか愛とまことの伝道師として、より一層の活躍を期待するものであります。以上、簡単ではありますが、わたくしからの新聖人へ向けての祝辞とかえさせていただきます。ご静聴ありがとうございました」

 国王による、原稿用紙わずか二枚半(約千字)ほどの超簡潔なスピーチが終わる。さすがは聖人の国のトップに立つ人物である。ここで一般にありがちな、原稿にして何十枚分(何千、何万文字)ものダラダラと長ったらしい退屈なスピーチを聞かせるのは決して有益ではないことを熟知している。常に相手の気持ちを推し量ることが出来るのも、聖人としての重要な条件なのだ。

 ……ちなみに、この物語はあと千二百字ほどである。時間にしたら、約三分くらいなので、よろしければもう少しだけお付き合い願いたい。

 さて、その後はゲスト聖人(何だそりゃ?)によるクラシック演奏会を経て、約一時間にわたる式典は滞りなく終了した。

 式が終わると、新聖人たちは会場外の広場へ出て、親しい者同士で写真を撮ったり、思い思いにお喋りをし始めた。皆それぞれに、何年か振りの友との再会を喜ぶ組もあれば、今日を境にしたしばしの別れに涙する組もある。毎年お馴染みの、心温まる光景である。

 そして……。

 こちらでも、毎年お馴染みの“心温まらない”光景が始まった。一部の不良聖人たちによる、まるでブレーキが利かなくなったF1マシンのような乱痴気騒ぎである。

 はて、そも不良聖人とは何ぞや?……と、お思いの方もおられるであろうが、実は聖人界にも優良不良があり、われわれ凡下凡俗の成人式と同じように鳥の巣のような髪型でサングラスをかけ、蛍光色の派手な羽織袴や四字熟語が刺繍された仰々しい特攻服を着込み、片手にドンペリか何かの瓶を持ちながら狂喜乱舞するという輩が一定数いるのである。すなわち、厳密に言えばこの場合は『聖人』ではなく『才子』止まりということになるのだが……。

「オラオラオラァッ! 何が聖人式だぁ、しゃらくせーや!」

「まったくだぁ! オレたちにゃ、行儀よく真面目なんて出来やしねーぜ!」

「そうだそうだ! オレたちゃあ、型にはまった聖人君子じゃねーんだぜ!」

「いったい、大人たちはいつまでオレたちをがんじがらめにする気なんだ、てやんでいっ!」

 あと一歩のところで聖人になり損ねた不良才子たちが、これまでの教育制度に対する不満や怒りを、あたかも大雨で堤防が決壊してしまった河川のように遠慮なくぶちまける。幼少期から、周囲の大人たちによって本人の意思とは関係なく神童才子のエリート社会に放り込まれ、そこでの生存競争の中で常に最底辺で苦汁をなめさせられてきたであろう彼らには、おそらく彼らなりのれっきとした主張があるに違いない。

 ーー僕はここにいるよ! ほら、もっと僕たちのことを見てよ! みんなもっと僕たちのことも構ってよ!

 おそらく、これが彼らの潜在意識に脈々と流れ続ける共通した叫びであろう。しかし、そうした憤懣ふんまんや悲しみといった負の感情を腹に納めながらも他者には優しく接する、あるいは瞬時に前向きな気持ちに切り替えられてこそ、人の上に立つべく選ばれし聖人になり得るのだ。

 聖人になれない者は、聖人の国からは淘汰されていくーー

 悲しいことだが、これが現実である。

 やがて、何百名規模の聖人警備隊が、盾や六尺棒を用いて一斉に彼らを鎮圧しにかかる。不良才子たちはさらに激昂し、激しく抵抗する。そのうち、遂に警備隊に向かって手をあげる者も出てきた。当然のごとく、その場で即身柄を拘束され、続々と護送車へ連行されていく。

 かくして、毎年この式典を境にし、真っ当に聖人になる者と、そうでない者とに別れていく。

 聖人式ーー

 それは、見事この先の生涯を『聖人』として生きていくか、それとも『ただの人』に成り下がるかを決定づける、ある意味残酷なふるいのようなものなのかもしれない。

(了)

 


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