落語(36)芭蕉忍-伊賀帰郷編-
◎「奥の細道」の旅を終えた松尾芭蕉は、その足で伊勢参宮を果たすと、弟子の李下を伴い愛着のある生まれ故郷・伊賀へとやってきました。実のところ芭蕉は、前々年そのまた前々年あたりにも伊賀へと度々帰郷しているようでして。そうなりますと、生涯旅を愛した彼でさえ、つまるところ多くの人々と同じように「やっぱり実家が一番いいねぇ〜」ということになるのでしょうか…。
芭蕉「(五七五で)おい李下よ ここが私の 生国だ」
弟子「ええ。ここが先生のふるさと・伊賀ですね。伊賀と言えばよく『忍者』『忍者』なんて言いますけど…こう見た感じ、のどかな普通の山里って感じがしますけどね」
芭蕉「甘いな李下 忍者の里を ナメるなよ。よく見てみ お前はすでに 包囲網」
弟子「え?あっしは見張られてるんですか?どこどこどこ?…え?誰もいませんけど?」
芭蕉「おい李下よ あの木をよーく 見るがよい」
弟子「え?あの木ですか?…ただの木ですけど」
芭蕉「あの中に 実は忍者が 隠れてる」
弟子「え?あの中に?…どこですかどこですか?…いや、全然わかんねぇな。『木を見て忍者を見ず』ってやつだ」
芭蕉「あの中に バッタとカマキリ 蛾がいるよ」
弟子「え?どこですかどこですか?…分かんねぇな。いっちょ脅かしてみるか(パンと手を叩き)わぁ!わぁーっ!(叫ぶ)…あ、本当だ。動いた動いた。あんな所に虫が居やがったのか。いや、全然分かんなかったなぁ。すっかり木に溶け込んでいやがるじゃねぇか」
芭蕉「見ろどうだ これこそ伊賀の 真骨頂。木には木に 葉には葉にへと 姿変え。伊賀者の これぞ忍法 隠れ蓑」
弟子「出た、これがもう既に忍法だったんですね。てことは、あのバッタとカマキリと蛾は忍者だってことだ。なるほど凄げぇなぁ。伊賀では虫まで忍者なんですね」
芭蕉「無視できぬ 虫の忍者は 忍者虫」
弟子「ええ、無視できませんよ。なんたって全部見られてるんじゃ、こっちは悪いこと出来ません。…するってぇと先生、あの犬も忍者ですか?」
芭蕉「もちろんだ あの野良も立派な 忍者犬」
弟子「へぇー、てぇしたもんだ。じゃあ、あの猫もあのイタチも(頭上を見て)あのカラスも…ぐわぁ!チキショー。あの野郎、糞落としやがった」
芭蕉「やれやれやれ カラスに毒を 塗られたか。おいカラス こいつは味方だ 安心せい」
弟子「いやぁ、ひでぇな。オイラはカラスに敵だと思われてたのか。恐るべし伊賀忍者の警戒心。…おや?なんだかあの猿もオイラのこと訝しげな目で見てるよ?」
芭蕉「(短冊に書き)何奴と 猿も小首を かしげなり…」
弟子「おい、猿、猿、ちょっとこっち来い。大丈夫だ、何もしねぇから。…あ、そうだ。赤福食べるか?こないだお伊勢さん行ってきたんだ。…ほれ、猿。食え、猿」
芭蕉「おい李下よ あまり猿猿 言うでない。伊賀者は 信長嫌い 大嫌い」
弟子「ああ、そうでしたね、天正伊賀の乱。あれで伊賀国は織田軍に壊滅させられたんですもんね。だからあまり猿猿言うと、下手したらあっしが信長に間違われて、あちこちから手裏剣が飛んでくるかもしれねぇ」
芭蕉「その通り 無駄に濡れ衣 着るなかれ。まさにこれ 李下に冠 正さずだ」
弟子「へへへ、あっしは李下だけにね。先生が芭蕉桃青で『桃』ですから、あっしはその弟子で『李』だ」
芭蕉「弟子李 李も桃も 桃のうち」
弟子「(五七五で)さて問題 桃と何回 言ったでしょう。…なーんちゃってね。…あ、先生、あれ見て下さい。あそこの木陰で、全身黒ずくめの忍者が二人、何やらコソコソしてますぜ。あいつらもあっしのこと見張ってんのかなぁ。…しかし、その割にはこっち見てねぇなぁ。ずーっとあっち見てるよ。誰か待ってんのかなぁ。…待てよ。あの場所はたしか日本三大仇討ちのひとつ『伊賀越えの仇討ち』で有名な鍵屋の辻だったなぁ。さてはあの忍者たち、あそこで仇が来るのを待ってんのかもしれねぇな。…先生、ちょっくら行って訳を聞いてみましょう」
弟子・李下の推察通り、この二人の忍者はどうやらこの辻で仇が来るのを待っているとのこと。それを聞いた芭蕉は「腹が減っては戦は出来ぬ」ってんで二人を目の前の茶屋へと連れていきまして…。
弟子「お前さんたち、歳はいくつだい?」
忍者「はい、あたしが十六で弟が十四でございます」
弟子「なんだい、そんなに若けぇ身空で仇討ちかい?で、いってぇぜんてぇ相手は誰なんだい?」
忍者「はい、織田信長の末裔で、お隣り大和国の殿様でございます。奴さん、昨日から尾張に向かう用事で馬に乗って出かけたという情報を、先だって忍者仲間から入手しましたので」
弟子「なるほど。じゃあ、先祖代々の恨みをこの機会に一気に晴らそうってわけだな?」
忍者「はい。あたしたちの家系は代々ずっと織田氏のことを憎んでまいりました。しかし、伊賀忍者は主君の命令時以外は無駄に戦をしてはならないということで、機会はあれどもその度にぐっと忍んでまいりました。けれど内心では皆、忸怩たる思いがあったはずです。ですから、あたしたち兄弟が今こそ先祖のかたきをば」
芭蕉「忍びとは 忍びがたきを 忍ぶなり」
忍者「はっ、何ですかそれは?」
芭蕉「忍者訓 お主も声に 出してみよ。忍びとは 忍びがたきを 忍ぶなり」
忍者「忍びとは…忍びのかたきは…織田家なり」
芭蕉「違う違う 忍びがたきを 忍ぶなり」
忍者「忍びがたきを忍ぶなり。…でも、ちょっと待って下さい。それじゃ、あたしたちの日頃の鍛練は何の意味があるんですか?あたしたち伊賀者は、生まれた時から否応なく忍者としての修行を積まされてきました。乳が飲みたくても飲ませてもらえず、たまに飲ませてもらってもゲップをさせてもらえず、夜泣きでもしようものなら物置に一晩中閉じ込められたり、時には谷底に突き落とされたり…。物心がつけば米俵を担いで往来(道路)を行ったり来たりさせられたり、自分で自分の関節を外したりはめたりして狭い所でも入れるように訓練させられたり。いったい、あたしたちはアブラムシじゃないってんですよ」
芭蕉「荒行も 全ては自身を 守るため。仇討ちに 使うためでは 決してない。明日を見よ 過去振り返るな 前を見よ」
弟子「仇討ち兄弟。先生からイイ話を聞いたところで、さあ、ナスの煮物でも食いな。なすびの花と親の意見に千に一つも仇はなし。ナスの煮びたしと翁の意見に千に一つも仇はなしだ」
忍者「ナスの煮びたしと翁の意見に千に一つも仇はなし…。はっ、そう言えば仇はどうした?憎き織田氏の末裔は。…亭主、最前この前を殿様が通りませんでしたか?」
店主「ああ、ついさっき何処ぞのお殿様の一行が通り過ぎました」
忍者「しまった!忍びが狙っているのに気づいて、先に鍵を駆けられた」