
落語(49)たぬき蕎麦
◎江戸本所七不思議の一つに「燈無蕎麦」というものがあります。その屋台はいつ行っても店主が留守で、灯りも消えているそうです。客がうっかり行燈に火を点けようものなら、以降必ず災難に見舞われる…実はこれ、オチは狸のようでして。昔の狸は、このようにしょっちゅう人を騙しては楽しんでいたようです。さて、今晩も狸がいつものように屋台に化けておりますと、そこに近所の岡場所(風俗街)の遊女二人がやってきまして…。
お浜「うぅー、寒い。いよいよ、もう本格的に冬だねぇ…ああ、やっぱり今日あたり、何処の屋台も混んでるわ」
お滝「本当だ。みんなこんな冷える晩は、蕎麦でも食べて温まりたいのさ……あ、お浜ちゃん見て。あの屋台には客が一人もいないみたいだよ?」
お浜「え?あら、本当だ。よそは何処も一杯だってぇのに…よっぽど不味いのかしら。ひょっとして柔らかすぎる蕎麦でも出すのかねぇ。それとも硬すぎるうどんを出すとか」
お滝「何だか知らないけどさ、とりあえず行ってみようよ。あの店だったら、すぐに作ってくれそうだし」
お浜「そうね。不味くたっていいから、ひとまず早いとこ温めてもらおうか、行こ行こ…こんばんはー!お蕎麦二つ下さいなー!…あれ?誰もいないじゃないか」
お滝「本当だ。だけど、お湯は沸いてるみたいだし、一応営業はしてるようだねぇ。便所にでも行ったのかしら」
お浜「それにしたってお滝ちゃん。ここんち、灯りが一つも点いてないじゃないの。これで本当に営業してるのかね?」
お滝「これから店を開けるとこだったんじゃないの?どのみち、そのうち戻ってくるさ。それまで品書きでも眺めながら待ってようじゃないか」
お浜「品書きったってお滝ちゃん、こんな真っ暗じゃ見えないよ?」
お滝「なら、ウチらの提灯の灯を分けてあげればいいさ…(蝋燭を取り看板に灯りをともし)…よし、点いた。…何なに?『二八そば きぬたや』だって」
お浜「へぇー、『きぬたや』ねぇ。たぬきの反対だ。えーと、お品書きは?…あ、あった。かけそば、しっぽく、玉子とじ、天ぷら、鴨南蛮…あ、消えた。ちょいと、お滝ちゃん。灯り消えちゃったよ?」
お滝「あれ?おかしいねぇ、いま点けたばかりなのに。行燈の油は、まだたっぷり入ってたはずだけど…まあ、いいや。じゃあ、もう一回…(再び点火)…はい、お浜ちゃん。点いたよ」
お浜「うん、ありがとう。えーと…鴨南蛮、うんとん、にゅうめん、きしめん…あ、また消えちゃった。ちょいと、お滝ちゃん。ちゃんと点けてんの?」
お滝「点けてるさ。何だろうねぇ、さっきから点けても点けてもすぐに消えちゃうよ。よし、じゃあ今度はちょいと長めに点けるよ…(長めに点火)…よし、これで大丈夫だろう」
お浜「点いたぁ?えーと、あとは…支那そば、暹羅そば、安南そば、阿蘭陀そばに…あ、また消えた。ちょっ、お滝ちゃんっ」
お滝「いや、私に言わないでよ。私はちゃんと点けてんだから…(再び点火しながら)…おかしいねぇ。どうしてこう何度も何度も消えちゃうのかねぇ…それにしても、ここんちは随分変わった蕎麦を出すんだねぇ。聞いたことのない蕎麦ばかりだよ…よし、今度はもう点けっぱなしにしよう…(点火したままで)お浜ちゃん、今度ぁ大丈夫だよ?」
お浜「大丈夫?ちゃんと点けといてよ?えーと、それから…富士そば…ねえ、お滝ちゃん。富士そばって何だい?」
お滝「(点火しながら)えぇ?単純に山盛りって意味じゃないのかい?」
お浜「ああ、なるほどね。えーと、それから…箱根そば…ねえ、お滝ちゃん。箱根そばって何だい?」
お滝「(点火しながら)えぇ?単純に富士に比べたら少しだけ山盛りってことじゃないの?」
お浜「ああ、そういうこと。えーと、あとは…いなり寿司、清酒、にごり酒、麦焼酎、芋焼酎、そば焼酎、笑顔、親切、真心、気心、日本一の接客、と…ちょいと、お滝ちゃん。この屋台、何でも揃ってるよ?」
お滝「(点火しながら)まったくだ。近頃、夜鷹そばでこの品揃えの豊富さは、ちょいと見たことがないねぇ」
お浜「だけど、肝心の店主がいないってんだからさ…これじゃ宝の持ち腐れだよ」
お滝「本当だねぇ…はっくしょん!…ねえ、お浜ちゃん。やっぱりよその店で食べようか」
お浜「そうだねぇ、私もすっかり冷え切っちゃったよ。まったく、店主は何処に行っちゃったのかねぇ…」
…ってんで、『亭主元気で留守がいい』ならぬ『店主たぬきでいつも留守』なんてな屋台に寄ってしまったもんですから、さあ大変。この後、見世に帰った二人の身には、いわゆる『燈無蕎麦の災難』が降りかかることになりまして…。
楼主「お浜、お滝、よく聞け。夕べ、おとついと、お前たちが相手した客の揚げ代(売上金)が立て続けに葉っぱに変わるという珍事が発生した。それも、ちょんの間のお遊びくらいの額じゃない。一晩散々ぱら呑み喰いして泊まってっただけの額が、たったの葉っぱ一枚になり変わっちまったんだ。もちろん、お前たちを責めるつもりはない。しかしな…(突然半べそになり)…何故こう二晩も立て続けで、突然狸に化かされなければならないのか。何か理由があるはずだ。それをお前たちに問いたい。え、どうだ?何か心当たりはないか?」
お浜「…お滝ちゃん、三日前の晩のこと、今ここで正直に全部話そうか」
お滝「そうだね。あの屋台がきっかけとしか考えられないものね」
お浜「あの…親方…実は、最初に狸が来た日の前の晩に、私とお滝ちゃんで休み時間に南割下水の辺りに夜鷹そばを食べに行ったんです。そしたら、そこで妙な屋台に寄ってしまいまして…」
楼主「何?妙な屋台とはどんな屋台だ?」
お滝「それが一つも灯りが点いてない上に、いくら待っても店主がちっとも現れないんです」
楼主「うーむ…確かにそれは妙だな」
お浜「今思えば、あの屋台がすでに狸が化けた姿だったのではないかと…」
楼主「何?狸が蕎麦屋台に化けていたと?…まさかお前たち、そこで何か狸を怒らせるようなことをしたんじゃあるまいな?」
お滝「いいえ、そんな…ただ、私たちは行燈の灯りが消えているので、待ってるあいだ点けていたんです。でも、不思議なことに何回点けてもすぐに消えてしまうんです」
楼主「それだよ」
お滝「え?」
楼主「お前たち、『狸の八畳敷き』って言葉を知ってるだろ?」
お浜「はあ、それはまあ…」
楼主「お前たちはその狸の八畳敷き、つまりは金玉に火を点けてしまったんだ」
お滝「ええ!?私たちが狸の金…いや、狸の八畳敷きに火を!?」
楼主「そうだ。考えてもみろ。狸は屋台そのものに化けてたんだ。言い換えれば、そのほとんどが狸の金玉だったんだ。そこに火を点けられたんじゃ、そりゃあ狸だって消さずにはいられまい」
お浜「え…じゃあ、狸は金玉…いえ、あの部分をヤケドさせられた仕返しに、葉っぱのお金で私とお滝ちゃんを一晩ずつ買いに来たと?」
楼主「まあ、そういうことだ。お前たち、見事に狸にしてやられたな」
お滝「どうりで…私が相手した時はちょっと恰幅のいい旦那様って感じだったけど、見世に来た時から小脇にひょうたんの酒なんか抱えてるから、また大層大酒飲みなお客さんが来たなぁ、とは思ってましたが…」
楼主「ひょうたんの酒なんて、まさに狸そのものじゃないか。その時、そのお客は菅笠を被ってなかったか?…被ってた?やっぱりな」
お浜「私が相手した時は、反対に少し痩せた感じの若者って印象だったけど、とにかく芸達者で。例えばただの石ころをかんざしや鏡に変えてみせたり、自分のお腹をポンポコ叩いて和太鼓の音を出してみたり、しまいにゃヘソで茶を沸かすなんて珍芸まで見せてくれましたわ」
楼主「だろ?それこそまさに『狸に化かされた』ってやつだ。それでいてその客、痩せてるわりにはメシは際限なく喰ってたろ?…喰ってた?…やっぱりな。狸って奴はとにかく大食いなんだ」
お滝「でも、親方。そのお客、床入りだけは絶対にしようとしないんです」
お浜「あっ、そうそう。私の時も『一緒に寝ましょ』って誘っても、『疲れた』ってんで一人で寝ちゃったんです」
楼主「そりゃそうさ。尾っぽを隠しとかなきゃならねぇんだから、絶対に着物は脱げねぇさな」
お滝「ああ、なるほど。そういうことね」
お浜「でも、親方。なんか私たち悔しいわ。だって、元はと言えばあの狸が人間をからかおうとして屋台なんか出してるからいけないんでしょう?それでアソコに火を点けられてヤケドしたからってんで逆恨みされたんじゃ…これじゃ私たちがただの泣き寝入りじゃない」
お滝「まったくその通りだわ。親方、今晩私たちもう一度あの蕎麦屋へ行って、今度は屋台ごと見世へしょっ引いてきてやるわ。で、しばらくあの狸をウチでタダ働きさせて、きっちり元を取ってやりましょうよ」
楼主「そうかい?まあ、お前たちがそこまで言うなら…よし、じゃあ早速今晩行ってこい。ああ、用心棒に権太を連れていけばいい」
さて、そんなこんなでその日の晩です…。
お浜「えーと、こないだは確かこの辺にいたはずなんだけど…あ、お滝ちゃん、見て見て。あそこに出てるよ。ほら、『きぬたや』って」
お滝「本当だ。相変わらず灯り点けずにやってるのね。よーし、待ってろ古狸め(歩く)」
お浜「(屋台の前まで来て)あっ、シーッ。お滝ちゃん、ほら見てそこ。尻尾が出てる」
お滝「くっくっくっ、馬鹿ねぇ。自分じゃ上手く化けてるつもりなんだろうけど、これじゃ『頭隠して尻隠さず』だわ」
お浜「権太さん、いい?一二の三で、屋台ごと担いで走るのよ?」
権太「ごっちゃんです」
お滝「いくよ。せーの、一二の…三!」
権太「ごっちゃんでーすっ!(屋台を担ぐ)」
古狸「あわわわわっ!ち、ちょっとちょっと、どこ連れてくの!?ち、ちょっと待ってーっ!」
お浜「黙れ、狸!お前はこれからウチの見世へ来て、親方がいいって言うまでタダで働いて罪をつぐなってもらうんだ!」
お滝「そうだ。私たちを散々だましてコケにした分、きっちりその体で払ってもらうからね!」
古狸「わわわわわっ!ごめんなさい、ごめんなさいっ!先日の件は大変申し訳ございませんでしたっ!今ここできっちりお詫びしますので、どうかご勘弁をっ!」
お浜「今ここで?…それじゃ何かい?こないだの揚げ代玉代を、今ここで用意出来るってぇのかい?」
古狸「すいませんっ!あの…揚げ代玉代の代わりと言っちゃ何ですが、揚げ玉を蕎麦にたっぷりご奉仕させていただきますっ!」
てなわけで、以後関東では揚げ玉の入った蕎麦のことを『たぬきそば』と呼ぶようになったとかならないとかという、どこまで本当なんだか分からない、話半分で聴いていただければというお話でございます。