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スマホを落としただけなのに、舞台を観ただけなのに

そこにアイドルはいなかった。

先日、舞台「スマホを落としただけなのに」を観て来ました。同タイトルの小説が原作で、北川景子さん主演で映画化もされた有名な作品ですね。映画第二弾「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」は白石麻衣さんが主演したことでも話題になりました。

この舞台は2020年にコロナ禍の影響でやむを得ず公演期間中に終幕してしまった作品でした。当時は原作小説の知名度に加え、乃木坂46の早川聖来さんが出演することも影響し、チケットが即日完売したそうです。

この舞台の存在を知ったのは、僕が乃木坂46と早川聖来さんを知ってから随分経った後であり、「前から知っていたら絶対観に行ったのに!」と悔しい思いをしていました。それが再演されることが決定したと聞き、速攻でチケットを購入しました。

僕は小説は読んでいませんが映画はそれぞれ鑑賞しており、あのスリルが舞台で味わえるのかと期待に胸を膨らませて劇場に臨みました。なおかつ早川聖来さんは乃木坂46の中でも芝居の評判が非常に高く、彼女がどんな芝居を披露してくれるのかワクワクしていました。

結論、度肝を抜かれました。

小説を読んでいなかったことは、ある意味で幸運だったかもしれません。映画のストーリーとは全く異なる展開でした。舞台の方が小説のストーリーの再現度が高いとするならば、僕は原作である小説を読んでいないが故の衝撃と、映画とは異なる展開による衝撃を同時に味わうことができました。

そして、コロナ禍で敬遠されがちになってしまうことは理解出来ますが、舞台は劇場で観るものであり、やはり舞台こそが芝居の真骨頂であると思わざるを得ませんでした。

今回はその思想のバックボーンと、舞台「スマホを落としただけなのに」の感想を可能な限りネタバレが発生しないようにアウトプットしていきます。


舞台だからこその熱

舞台観劇の価値とはなんでしょうか。

エンターテインメント、つまり娯楽であることは確かにそうなのですが、僕は役者が命を燃やしている姿を目の当たりにすることこそが舞台観劇の価値だと思っています。

役者が、たとえ物語上は何気ない日常のシーンであっても汗だくになりながら必死に芝居をしたり、感情表現が絶頂するあまり舞台上で芝居ではなく素で泣いたりしている姿は観る者を圧倒させます。

そしてその感動は、芝居が劇場というその演劇専用の小宇宙で披露されること、そしてリアルタイムに披露されること、この2条件が満たされるからこそ最大化します。

まず、第一条件についてですが、劇場という空間だからこそ、観客は舞台上で描かれる非日常の世界に没頭出来ます。同じ演劇でも、家でDVDで観劇するのと劇場で生で観劇するのとでは雲泥の差があるのはこれが原因です。

舞台とは非日常の世界であるにも関わらず、家という日常の権化とも言える空間で観ると、観客は舞台の世界に入っていくことができず、感動が半減してしまうのです。だからこそ僕は、舞台は劇場で観るものであると考えています。

また第二条件について、舞台演劇はリアルタイムに披露されるからこそ面白いのです。芝居自体はドラマやアニメなど色々な形態で披露されますが、舞台演劇はそれらとは一線を画する「やり直しが効かない」という性質があります。

ドラマやアニメはセリフを噛んだり、クオリティに納得出来なかったりすればやり直すことが可能です。しかし、舞台演劇はそうはいきません。たとえセリフを噛もうとも、クオリティに納得出来なかろうとも、続行するしかないのです。

だからこそ、役者は舞台上で流れる時間に全身全霊を賭けて挑み、その一瞬一瞬に魂を吹き込むのです。その姿にこそ価値がある。舞台こそが芝居の真骨頂と述べる理由はここにあります。芝居とはそもそもやり直しが効くものではないのです。

故に、余談ですが僕は役者が全身全霊を賭けて挑んだ結果であれば、セリフを噛んでも良いと思っています。セリフを噛むことを恐れて本気になれないくらいであれば、噛んでも良いから本気の芝居を観せてほしいと思っています。


役者達の思い

さて、第一条件・第二条件が満たして感動を最大化させるためには劇場に足を赴く他ありません。たとえLIVE配信でも第一条件が満たさせれないので感動は最大化されないのです。

このような理論を踏まえて「スマホを落としただけなのに」を観た時、役者達の方々が命を燃やしている姿は非常に尊いものがありました。特に彼らはコロナ禍によって一度やむを得ない終幕を経験していることから、その悔しさを晴らしてやるというような意気込みが伝わってきたのです。

実はこの作品は東京と大阪で公演される予定でしたが、可哀想なことに大阪公演はまたもやコロナ禍の影響で中止となってしまいました。それがあるだけに、東京公演に懸ける思いはより大きく強いものになっていたと思います。

特に早川聖来さんは大阪府出身というだけあって、地元で芝居を披露できる期待もあったと思います。それが中止になったというだけあって、その悔しさは計り知れません。

その悔しさを芝居に乗せていたが故か、彼女の芝居は飛躍的に成長していたように思います。早川聖来さん演じる「稲葉麻美」は作中で何度か屈辱的な体験をすることになるのですが、早川聖来さんはその芝居に上述の悔しさを見事に活用していたと思います。

僕は2020年の公演は観ていませんが、2020年の初演ダイジェスト映像にあるほんの数秒のセリフだけでも、今回の芝居の方が圧倒的に質が高いと思いました。

彼女自身、2020年からの1年で芸能人として様々な経験をしています。特に芝居の面で言えばドラマ「ボーダレス」への出演が記憶に新しいですね。今回の再演までの間に培ってきた能力を遺憾なく発揮し、芝居に反映させていたと思います。

乃木坂46や早川聖来さんを知らず、小説の「スマホを落としただけなのに」が好きでその舞台化に期待した人の中には、アイドルグループのメンバーが出演することに違和感や不満を覚えていた人もいるかもしれません。悲しいかな、元来アイドルとは大根役者のイメージが付きまとってしまうものです。

しかし、僕はそのようなイメージをもつ人にこそ、この舞台を観てほしい。そして、「この芝居がアイドルグループのメンバーによるものなのか」という衝撃を味わってほしいと思います。

物語の中には、アイドルが触れてはいけないような、危険で陰湿な性表現が用いられたシーンやグロテスクなシーンがいくつかあります。そのような作品にアイドルグループのメンバーを出演させることで、この衝撃はより強いものになるでしょう。早川聖来さんのキャスティングにはそのような意図があったのかもしれません。

アイドルとしての早川聖来さんを求めてこの舞台を観劇すると、満足する感動は得られないと思います。そこにいたのはアイドルではなく舞台役者としての早川聖来さんであり、この作品に懸ける思いが詰まった芝居はまさに役者のそれでした。


まとめ

劇場で舞台を観劇し終わると、僕はいつも焦燥感を覚えます。役者が命を燃やしている姿を目の当たりにしたことで、「自分はこんな平凡な日常を送っていて良いのだろうか」や「あの役者に比べて自分はどれほど命を燃やせているのだろう」というような危機感に似た焦りが生じるのです。

だからこそ僕はそれを原動力としています。日々の生活や仕事に「あの役者達に負けないように」という思いで取り組むことが出来ているのです。これは僕に限った話ですが、僕にとって舞台とはこのような熱を与えてくれる存在なのです。

今回の舞台においても、役者の方々の命を燃やしている姿により、僕はまんまと焦燥感を味わされました。だからこそ、終劇の際の拍手は芝居に対する賞賛と、「命の輝きを観せてくれてありがとう」という感謝が詰まったものになっていました。

昨今、コロナ禍によって演劇そのものが劇場で披露される機会が激減しており、僕にとっても久しぶりの劇場での舞台観劇でした。

久しぶりであるということ、そして絶対に観たいと思っていた作品であったことから、その満足度は非常に高いものになっています。

今回の作品はそこまで大掛かりな舞台セットではありません。舞台装置が派手に動くような展開はなく、各シーンの情景はほぼ役者の芝居によって作り出されています。それ故に役者の芝居が強調され、役者が演じるキャラクターの感情がむき出しのままに観客にぶつけられてきます。その衝撃を味わいたい方にはぜひ観劇してほしいと思います。

そして、作品のラストは続編が制作されても不自然ではない展開になっています。もしかしたらもしかするかもしれませんね。

以上、「スマホを落としただけなのに、舞台を観ただけなのに」でした!!

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