見出し画像

初めて舞台をやった時の気づき

極上の経験価値。

僕はよく舞台を観ます。劇団四季劇団ヘロヘロQカムパニー、堂本光一さんのEndless SHOCK、乃木坂46の「あさひなぐ」や「ザンビ」等、思い出してみると色々な作品を観てきました。舞台を観るのは本当に大好きです。

芝居については完全に消費者でしかなかった僕ですが、実は一度だけ芝居でお金を稼いだことがあります。仲間内で小規模の劇団を組み、カフェの一室を借りて舞台を公演しました。学芸会で劇を披露したことはありましたが、お金をもらった上で芝居をするのは初めてであり、とんでもなく緊張したことを覚えています。おかげで人生の貴重な経験値を積むことが出来ました。

今回はこの貴重な体験を経て気づいたことを、記憶が消え去っていく前にアウトプットしていきます。


舞台の上でも人は自由である

あまりに当然すぎて気づいていなかったこと、それはたとえ舞台上でも人間の身体は自由に動くということです。観劇する立場にいるだけでは、役者や舞台装置はとても機械的に決まった動きをするため、見逃しがちになってしまう事実だと思います。

同じセリフ・同じ場面でも、人間の身体は稽古中・本番中問わず自由に動く、つまり身体の動きは常にアドリブ状態なのです。

呼吸、セリフの抑揚、立ち位置、歩幅、視線、手足の動きや角度などの身体の動きは、完全な再現は2度とできないものです。たとえ同じような動きに見えても数センチ、数ミリの単位で微妙に毎回異なります。となると、稽古や本番の度に身体的表現は違って来てもおかしくない、むしろ違ってくることが当然です。

つまり、毎回の公演において同じような身体的表現が披露されているのは、アドリブの表現が結果的に同じような動きに見えているということなのです。

舞台で芝居を披露している役者さんは、度重なる稽古を行うことで身体の動きの再現性を高め、たとえアドリブ状態で動いてしまう身体であってもそれを駆使して同じような芝居を披露しています。

身体の動きの再現性を高めることは、そう簡単に出来ることではありません。これは実際に芝居をやってみて気付かされたことですが、体が揺れるとか指が動くとか、人は無意識に身体のどこかを動かしてしまうものです。そのような日常的な動きが芝居中に出ると、一瞬のうちに安っぽくなってしまいます。

舞台の上はあくまで非日常の世界です。そこに日常的な動きが入ってきたら、世界観が崩れてしまいますよね。ディズニーランド内の景色に見慣れた普段の建物があってはならないのと同様に、舞台の空間もまた非日常でなければならないのです。

故に役者さんは、普段無意識に行ってしまっている癖や動作を芝居中は出してはいけないのです。

無意識な動きを有意識化し、舞台上や稽古中ではそのような日常的な動きが発生しないようにして、芝居中は芝居に必要な動きしか発生しないように身体を制御する。

これが出来てこそ、プロの役者なのだと感じました。

一体どれだけの稽古と研鑽を積めば、そんなことが出来るようになるのでしょうか。ただでさえ本番中は緊張しているにも関わらず、芝居中は常に自分の身体の動きを制御し続けるだなんて簡単に出来ることではないと思います。

実際に僕は稽古中に何度も無意識に日常の動作が出てしまっていると注意を受けました。一瞬でも集中力が途切れただけで日常の動作が出てしまうので、たとえセリフが自分の順番でなくとも、舞台に立っている間は常に芝居し続けなければならないということに気付かされました。

自分の身体の使い方をマスターしている人こそがプロの役者であり、プロだからこそ必要な時に、悲しくもないのに涙を流せるのです。自分の身体を十分に制御出来ているからこそ成せる業ですね。それだけの業を身につけなければ人に最高の感動を届けられないのだと思い知らされました。


公演作りは困難の連続

舞台公演の作り方として、まず最初に脚本が作られます。そしてその脚本を基にして、舞台セットが制作されたり稽古が行われたりします。

脚本の決定稿だけを見ればセリフや展開は固定されています。しかし、それらを表現する芝居や方法は無限にあります。

前章で述べたように身体の動きは常にアドリブ状態であり、役者さんは「このセリフ・場面はどんな動きで表現すべきか」ということを常に考え、試行錯誤しながら稽古に励みます。

常に考え続けているが故に表現のアイディアはどんどん出てきます。それらを取捨選択して一つに絞っていくのは、思っているよりも辛いものがあります。

たとえ取捨選択し終わり、「この表現でいく」ということが決定したとしても、アイディアは常に出てくるのです。そうなると「やっぱりこっちのアイディアの方が良いんじゃないか」という疑問を常に抱き続けることになります。

そのアイディアが一人で芝居をするシーンであればまだ良いのですが、複数人で芝居をするシーンとなると、その場面の出演者それぞれから無限にアイディアが出てくることになります。そしてアイディアとアイディアが掛け合わされるとシナジーが発生してまた違うアイディアも生まれることになり、もはや収拾がつかない事態に陥ります。

だからこそ監督や脚本家がどのような方針で公演を作っていくのかを決定するのですが、彼らも人間であり、実際に芝居をしている役者からアイディアを出されたら無下には出来ないでしょう。

また、取捨選択を繰り返すということは、決定事項の変更やアイディア不採用の連続が発生するということです。これらは役者さんに対して想像以上の負荷となります。

負荷が積み上げられることで、役者さん同士や役者さんと管理者の間で諍いや燻りが生じてしまうことも少なくありません。もちろん社会人同士ですから、怒りの感情を交えて議論することはないでしょうが、議論が決着するにはかなりの時間と労力を要します。

このように、公演作りは人間関係という人類にとって最も面倒な問題を常に抱え続けながら行われていくものであり、人間関係は繊細な問題である以上、いつ崩壊してしまってもおかしくないものなのです。

重要な役を担う役者さんが急に稽古に顔を出さなくなることや、諍いが発展したが故に公演そのものを中止しようという話が出てきてもおかしくはないでしょう。

そうやっていろんな調整や取捨選択を行いながら少しずつ公演は出来上がっていくものなのだということを身をもって知りました。それまでは、脚本家や監督の指示でとんとん拍子に公演は作られるものだと思っていました。しかし、実際には芝居プランは基本的に役者に委ねられており、そのプランに監督や脚本家が修正や指示を与えていくものだったのです。つまり舞台とは、みんなで作り上げていくものだったということに気づきました。

そのような困難を乗り越えて迎えた公演初日や千秋楽は、公演を作ってきた全ての人にとって感慨深いものになることは間違いありません。実際に僕も公演が終わった時、今まで感じたことのない解放感と安堵を得ました。

そして公演が終わった次の瞬間には「もう2度と芝居なんてやってたまるか」とさえ思ったくらいです。

しかし、その解放感と安堵は病みつきになります。また思い返してみると芝居すること自体は、悔しいかなメチャクチャに楽しいのです。だからこそ、僕はこの記事を書いている最中にも「なんだかんだで楽しかったし、またみんなで芝居がやりたいなぁ」と思い始めてしまっているのです。


常に疲労困憊

芝居だけで生計を立てられる人は極々一握りです。大抵の役者さんは日中にも仕事をしており、その仕事終わりに稽古に励むことになります。となると稽古が始まる時にはすでにクタクタの状態なのです。

ただでさえ疲れている身体に鞭打って稽古をしているのに加えて、前章のような困難も同時に解決しなければなりません。稽古の開始時間や稽古場までの移動時間も考慮すれば睡眠時間も削られることでしょう。そんな毎日が続けば、すぐに疲労が頂点に達してしまうのは容易に想像できます。

僕も仕事終わりに稽古が始まり、夜遅くに帰宅するという生活が続き、稽古期間中は常にクタクタでした。しかも、休日は休むためではなく稽古のために使われるので、稽古期間中は休む暇がなく余計に疲労は貯まる一方でした。

そんな状態が続くと人は心身共に荒れていき、不調が生じてきます。あまりに辛すぎて逃げ出してしまいたくなることもあるでしょう。しかし公演日が迫っているのであれば弱音や泣き言は言えません。そのような苦痛から解放されるためには、もはややり抜くしかない状況に追い込まれているのです。

舞台上で芝居をしている役者さんを見ているとそのような不調は微塵も感じないかもしれません。彼らはプロであり、対価を払われた以上はその対価に見合う最高の価値提供をしなければならないので、舞台上で疲れた表情など見せるわけにはいかないのです。しかし、実際には身も心もボロボロになっているのは間違いないでしょう。

だからこそ、千秋楽は余計に感慨深いものになります。様々な困難を乗り越え、自分の限界に挑み続けて迎えた千秋楽は、役者さんが全ての苦行から解放される瞬間です。舞台上で泣いてしまうのも理解できますよね。

僕も多少なりともその経験に心当たりがあるので、終劇した際には「感動を与えるために頑張ってくれてありがとう」という感謝と称賛の気持ちを込めて拍手を送るようになりました。

人前で芝居をする経験をしたからこそ、公演を行った役者さんに対して労いの気持ちをもてるようようになりました。そして何より、公演が終わった時の観客からの拍手がどれだけ役者の励みになるのかということも身をもって知ることができました。

この記事を読んでいただいた方には、ぜひ拍手の意味や拍手に込める気持ちというものを再認識してほしいと思います。


人の感情は抑制されている

これは、僕が最も苦労した気づきでもあります。普段の我々は無表情での生活に慣れすぎているが故に、喜怒哀楽を能動的に表情にするのはとても難しかったです。

気がついたら無表情になってしまっており、何度も監督に注意されたことを覚えています。そして「自己解放」を課題として課されました。

「自己解放」とは、感情を感情のままに表現する技術だと思います。例えば、怒りたい時に怒り、周りにいる人に怒っていることを認識させる能力です。

役者さん達は自己解放の技術の高さ故に、少しオーバーとも言えるような表情や動作で芝居をしているのです。おかげで観客側は役者さんが演じているキャラクターの感情を苦労なく認識できるのです。

それに対し、無表情で芝居をされたらどうでしょう。キャラクターがどんな感情でいるのか読み取ることに苦労し、観劇どころではなくなってしまうでしょう。

自己解放の重要性を知った僕に、監督は自己解放の特訓をしてくれました。最近怒りを覚えた事象を思い出し、自分にぶちまけてみろと言うのです。しかし、事象は思い出せても、感情や表情、言葉がついてこない。僕は社会人として必要以上の感情を抑制することに慣れ、怒り方を分からなくなってしまっていたことに気づきました。

しかし、特訓と稽古を積んでいる間に「感情を思う存分出して良いんだ」ということを認識しその勢いに任せて芝居したところ、「急にお前の芝居は面白くなった」と評価されました。

そして感情を思う存分表現した時、なんとも言えない心地よい頭痛がしたのです。特に右脳に血液が送られてじんじんと脈打っているような感覚があり、とても爽快でした。

自らの感情を解放し、ありのままの自分をさらけ出せる。これこそが芝居の楽しみであり、普段は得られない経験価値なのだと痛感しました。

こんな経験、芝居をしなければ得られないでしょう。


まとめ

いかがでしたか。
どれもこれも当然すぎて気づかなかったことであり、芝居はむしろ新しい発見の連続でした。辛くて仕方がない稽古期間でしたが、これほどまでに「良い経験になった」と思えるものはありません。

それは辛いとはいえ、芝居は刺激を得られるものだったからです。僕自身、舞台に参加しようと思ったのは「最近つまらない、刺激が欲しい」と思ったからでした。

芝居の経験は期待以上の刺激を与えてくれました。感情を思う存分丸出しにして良い機会なんて、芝居をしない限りなかなか得られるものではありません。自分が解放されていくのは途轍もない快感であり、本当に楽しいのです。日々の生活に「刺激が足りない」と思っている方は、ぜひ芝居に挑戦してみてほしいと思います。

以上、「 初めて舞台をやった時の気づき」でした!!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?