【舞台感想文】桜文
花魁や悲恋を題材にした作品を観たのは初めてかもしれない。せっかくの経験価値が薄まってしまう前に感想を書き留めておこうと思います。
舞台そのものについて
舞台を観るたびに思います。やはり舞台は芝居の真骨頂です。
舞台はその原理上、失敗したからといってやり直しは出来ません。なおかつ、同じ芝居は二度と出来ません。忘れがちになってしまうことですが、全く同じ芝居はこの世に存在しないのです。その芝居を観れるのは、その1公演のその一瞬だけです。
故に、舞台俳優はその1公演のその一瞬に全身全霊で挑みます。この緊張感で満たされた挑戦があるから、舞台では俳優の命の輝きが垣間見れるのです。これこそが舞台の価値だと僕は考えています。
たとえ何気ない日常の場面でさえも汗だくになりながら演じるその姿には、命が燃えている熱を感じます。全身全霊で芝居に挑めない人は舞台役者に向いていないでしょう。
今回の俳優陣も、余すところなく命の輝きを魅せてくれました。願いを胸に叫ぶ様子や、絶望故に慟哭する姿は強烈に僕の感性を刺激しました。本当にありがとうございました。
余談ですが、僕は俳優がセリフを噛むことはたいして気にしません。セリフを噛むのを恐れて、全身全霊で芝居に打ち込んでくれないことの方が嫌です。全力で挑んだ結果でセリフを噛むのならば、それはそれで貴重な命の輝きだと思います。
また、俳優陣ばかりが注目されがちですが、セットや脚本に目を向けると「こんなのよく作ったな」と驚かされます。今回の作品は、特に演出に対してその驚きが強かったように思います。
舞台という場所はがらんどうであり、セットや俳優をどうにでも動かせます。自由度が異常なほどに高い。
一見すると、自由度が高いという言葉は良いことに思えるでしょう。しかし、それは収拾がつきにくいということでもあります。故に、演出家は溢れ出てくるアイディアやとりとめのない思考を、脚本をもとに少しずつまとめ上げていかなければいけません。
これは想像以上に難しいと思います。
たとえある場面の演出が決定しても、後から出てきた演出案の方が優れているように思えることなんていくらでもあるはずです。それ故に演出を更新したくもなるでしょう。
しかし、舞台には製作期限があります。いつまでも更新を繰り返すことは出来ず、どこかで見限る必要があります。それ故、演出の製作工程は苦悩の連続だと思います。
この作品ではいくつかの舞台セットが動き回り、様々なシーンを演出しています。セットが動き回るということはやはり自由度が高いということです。
セットが固定されていた方が演出を考える上ではよほど楽だと思います。ひとつのシーンを演出する方法はいくらでも発想されたでしょう。そしてそれらにはたいてい苦悩の取捨選択が行われていると思います。
その苦悩を乗り越えて今日の舞台があるのです。洗練された演出のおかげで作品を心底楽しむことが出来ました。本当にありがとうございました。
「桜文」という作品ついて
ここからはネタバレになる可能性があります。ご拝読いただく際には事前に了承してください。
まず、上演中は度々手毬唄が聴こえてきました。冒頭で述べたようにこの作品は悲恋を題材にしており、これは題材を訴求することにとても効果的だったと思います。
手毬唄のメロディには、どこか戦慄や狂気を含んだような雰囲気を感じます。日本のホラー映画や恐怖を描く作品で手毬唄がたまに聴こえてくるのはそのせいかもしれない。
このおかげで、作品の題材である悲恋やその切なさがより際立っていたと思います。これが意図的に作り出された効果であるならば、その演出は本当にお見事だと思います。
次に、今回の作品の設定に注目してみます。「桜文」は明治という時代を背景に物語が進んでいきます。
これ自体、僕にとっては意外な要素でした。
僕は意図的に作品の情報を遮断して鑑賞に臨みます。事前に作品の情報、とくにあらすじを頭に入れてしまうと、鑑賞時の新鮮味がなくなったり、知らず知らずのうちに物語の展開を予測してしまったりするからです。
作品を大いに楽しむための工夫として、可能な限り作品のあらすじを事前に知ることがないように心掛けています。
そんな僕は、花魁が出てくる作品はきっと江戸時代あたりの話だろうと予想していました。しかし実際には明治時代の話であり、意表を突かれました。
もし事前にあらすじを読んだり、作品のwebサイトに目を通したりしていたらこの驚きはなかったでしょう。
特にキービジュアルや舞台のチラシでは、主演の一人であるゆうたろうさんの衣装が時代背景を物語っています。これを見なかったおかげで、個人的に小さな驚きを得ることができました。ちなみに彼はこの作品で小説家志望の青年を演じています。
そしてこれまた個人的に、このあたりの時代の作品には少しばかり馴染みがあります。
太宰治の「人間失格」や、夏目漱石の「こころ」の感想文は、以前noteで公開した通りです。これらの作品を読んだ経験によって、僕には朧気ながらこの時代の日本や人々のイメージがありました。
恐らく、このころの日本において小説はエンターテインメントの分野に大きく幅を利かせていたのだと思います。現代でこそ、テクノロジーの発達故にエンターテインメントは多様化しました。
しかし、テクノロジー発達段階だった時代では、エンターテインメントと呼ばれるものはそこまで種類がなかったのでしょう。紙に字を書いて人に読ませるという、小説のある意味で原始的な形式がエンターテインメントの権化だったのかもしれません。
それ故、多くの人が小説を求めていたのでしょう。その分野で才覚を発揮したからこそ、彼らの名や作品は今日まで語り継がれているのではないでしょうか。名だたる文豪が文豪と呼ばれる所以は、時代背景も起因していると思います。
話を戻すと、時代背景もあり、明治という時代は小説家が大いに活躍していたのだと思います。その時代を背景にして、小説家志望の青年を主な登場人物として作品を作り上げたのは、とても合理的だと思います。
明治という時代で作品を作るなら、小説に関わる人物を登場させるというのは、作家にしてみれば自然の成り行きと言えるほど当然のことなのかもしれません。もしそうであれば、基礎基本に忠実な作品なのだと思います。
しかし、明治という時代背景で花魁を取り上げるのはどうでしょうか。
花魁が登場する=江戸時代の話と予想してしまうほどです。僕に歴史的な知見や教養がなかったと言われればそれまでですが、少なくとも明治で花魁を取り上げた作品は観たことがありませんでした。
この点に斬新な違和感を感じます。実に面白かった。
僕にとってこの作品は、歴史を理解した上で調和と違和を意図的に生み出した、絶妙な作品でした。とても興味深く、また席もステージに近かったことから没入して鑑賞していました。
僕が見てきた舞台はほとんどがハッピーエンドでした。悲恋や悲劇的な結末を迎える作品を観た経験も少なかったが故に、新鮮で最後の最後まで楽しめる作品でした。自分と作品の相性の良さを感じます。機会があれば是非ともまた鑑賞してみたいです。
まとめ
僕のnoteを一覧で見てもらえると分かりますが、僕は乃木坂46に関する記事を多く公開しています。僕は乃木坂46が大好きです。
もともと舞台鑑賞が好きということもありましたが、今回の鑑賞の主なきっかけは、乃木坂46のメンバーである久保史緒里さんが出演しているからでした。言ってしまえば安易なものです。
しかし、それによって得られた経験価値は途轍もないものでした。
例えば、そもそも僕は花魁の格好をした女性を実物で見たことすらなかったのかもしれません。それ故に、あれがどれほど本格的な衣装だったのかは分かりませんが、高下駄を履いて歩く女性の独特な美しさや威厳というものを実感することが出来ました。
シーンとしてはごくわずかですが、それでも新鮮な光景を観ることが出来ました。僕は経験価値を求めて舞台を鑑賞することが多く、今回の鑑賞では僕の需要が大きく満たされています。
この作品は東京以外の地方公演も控えています。
明治という、古き良き日本を舞台に描かれる悲恋。この機会に是非多くの人に鑑賞してほしいと思います。
以上、舞台「桜文」の感想文でした!!
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