【刊行記念】ピラール・キンタナ『雌犬』(村岡直子訳)訳者あとがき全文公開!
ピラール・キンタナ『雌犬』(村岡直子訳)刊行を記念して、本書の訳者あとがきを以下に全文公開します。
衝撃的な内容が全米で物議を醸した、スペイン語圏屈指の実力派作家による本作『雌犬』が生まれるまでの驚くべきエピソードと、作家キンタナの一風変わった経歴についてご紹介します。
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『雌犬』訳者あとがき
村岡直子
ジャングルと海がせめぎあう、コロンビア太平洋岸の僻村。都市まで小型船で一時間、それ以外には外部にアクセスする手段のないこの土地の住人たちは、服や靴といった日用品もろくに持たず、現代社会の基準でいえば〝貧しい〟生活をしているが、あふれかえるほどの自然の恩恵を受けているため飢えることはない。非常に貧しく、それでいて非常に豊かで、近代的とはいいがたいが全く未開の土地というわけでもない、同国のなかで最も忘れ去られた場所、それが本書『雌犬』(La perra)の舞台だ。
主人公ダマリスは間もなく40歳になる貧しい黒人女性。切望していた子どもをひとりも産めないまま、女が〝乾く〟年齢となった。夫との仲は冷え切り、崖の上の別荘地で管理人をしながら淡々と暮らしている。そんな彼女の生活が一変したのは、生まれたての雌の子犬を譲り受けたことがきっかけだった。
生後間もなく母犬を亡くした寄る辺ない雌犬を、ダマリスは溺愛する。産むことのかなわなかった我が子の代わりででもあるかのように、娘が生まれたらつけようと思っていた名前をつけ、かたときも離さず連れ歩き、生活の中心に雌犬を据えた。ところが、蜜月は長くは続かなかった。一度山に迷い込んで帰ってきてからというもの、雌犬には逃げ癖がつき、わずかな隙をついては家出して、悪びれもせず戻ってくるようになったのだ。こうして、ダマリスと雌犬の関係は変化を余儀なくされていく――。
濃密な環境で繰り広げられる、人間と犬との濃密な関係を描いた本作。2017年の発売時は特に大々的な宣伝もしなかったというが、たちまち評判が広がって、本書についてファンが語り合うウェブフォーラムも出現するようになり、コロンビアの栄えある賞、ビブリオテカ(図書館)小説賞を受賞。国民文学賞小説部門の最終選考にも残った。また英語、フランス語、オランダ語など15か国語(2021年現在)に翻訳され、2019年に英国のPEN翻訳賞を受賞。そして2020年には、米国で最も権威ある文学賞のひとつとされる全米図書賞翻訳部門の最終選考に残った。
作者のピラール・キンタナ(Pilar Quintana)は、1972年にコロンビア第3の都市カリに生まれたメスティーソ(混血)の女性である。家庭は比較的裕福だったものの、生後わずか9か月のときに両親が離婚。物質的には不自由しなかったが、心情的には放置され、孤立無援状態だと感じながら育った。家庭だけでなく、小学校5年のときに転入した女子校でも居心地の悪さを感じていた。そこはフェミニズムを標榜しながら実際にはマチスモの考え方が支配的な学校で、強く優しく、働き者で母性的な女性を育てることを方針としていた。学校のみならずカリの街全体に、女の子は常に小ぎれいに装って、慎み深く振る舞わなければならないという気風があり、活発でスポーツ好き、落ち着きがなく無謀なところがある子どもだったと自認する彼女は、押しつけられる理想像にことごとく当てはまらなかった。
職業選択の面でも、周囲の期待と彼女の選択は合致しなかった。父親は、彼女を医者や心理学者といった伝統的に社会的地位が高いとみなされる職業に就かせたいと、考えていたようだ。だが彼女は大学でコミュニケーションを学び、テレビの台本作家や広告会社のコピーライターとして働いた。ところが働きつづけるうちに、これは自分が本当にやりたいことではないと思いはじめた。「このままでは、定年を迎える57歳までこうしていなければならない。あと30年も会社に行くだけの生活を続けるのなら、自殺したほうがましだ」とまで思いつめた。本当にやりたいこと、それは旅をすること、書くこと、そして物を書いて生活すること。そう結論づけたキンタナは仕事をやめ、「ヘアケア製品がスーツケースに入らなかったから」頭を丸刈りにして、28歳になる年に放浪の旅へと出発した。2000年にコロンビアを出て、ほとんどすべての中南米諸国を周り、ワールドトレードセンターが破壊されたときにはニューヨークにいた。その後インド、ネパールにも行き、オーストラリアでは季節労働者としてマンゴーを収穫したほか、犬を散歩させる仕事もした。
旅に出る前、彼女は一編の小説を書き終えていた。世に出す伝手などなかったので、電話帳で調べて複数の出版社に原稿を送った。出版を引き受けてくれたプラネタ社から第一作となる『舌のこそばゆさ』(Cosquillas en la lengua)を上梓した2003年、キンタナはコロンビアに戻ったものの、まだ旅の延長のつもりで、バジェ・デル・カウカ県フアンチャコという太平洋に臨む土地に移住した。そこは最も近い都市ブエナベントゥーラまで船で1時間かかり、浜辺の際までジャングルが迫る鄙びた村……。もうおわかりだろう。ダマリスの物語の舞台は、作者キンタナが実際に暮らした土地をそっくりそのまま描写したものなのだ。当時の夫とともに、断崖の上に自分たちの手で小屋を建て、2012年までの9年間をそこで過ごした。地所は広大で、隣家を訪ねるときは山刀で道を切り開きながら歩いた。村に下りたときに、満潮で水位が上がれば、断崖との間の浜が没するので泳いで帰らなければならなかった。まさに本書『雌犬』の世界そのものの暮らしだ。
文明と隔絶された場所で、本人曰く「修道女のように禁欲的な」生活を送りながら、彼女は3冊の本を書き上げた。2007年に出版された『珍奇な埃の蒐集家たち』(Coleccionistas de polvos raros)、2009年の『イグアナの陰謀』(Conspiración iguana)、そして2012年の短編集『赤ずきんはオオカミを食べる』(Caperucita se come al lobo)である。そのほかにも、短編の雑誌掲載やアンソロジー収録など精力的な執筆活動を行って国内外での評価が高まり、2007年には英国発祥の文学祭ヘイ・フェスティバルで〈39歳以下の傑出したラテンアメリカ作家39人〉のひとりに選ばれた。また前出の『珍奇な埃の蒐集家たち』はスペインのラ・マル・デ・レトラス小説賞を受賞。アイオワ大学主催の国際ライティングプログラムに研修作家として、香港浸會大学主催の国際ライターズ・ワークショップには客員作家として招待されている。
このように文学界ではその実力が高く評価されていた、いわば玄人受けしていたキンタナだが、多くの一般読者を獲得し、各国語に翻訳されて世界的に広く名前が知られるようになったのは本書『雌犬』が出版されてからである。では、それまでの作品と本書との違いは何かというと、テーマから物語の背景、登場人物の設定まで、作風が大きく変わったことが挙げられる。それまでは、カリにいたときの第一作はもちろん、ジャングルのただなかで執筆した作品でさえ、都市を舞台としていた。海とジャングルを物語の中心に据えた本書をキンタナが書きはじめたのは意外にも、フアンチャコを離れ、再び都市で生活しはじめてからのことだった。
日本に暮らす身では想像が追いつかないほどの圧倒的な大自然と、そのなかで営まれるごく当たり前の人々の日常。その両方をこの上なくリアルに描けたのは、作者自身がそこで生活していたからにほかならない。屋根をたたく太鼓のような雨音、ジャングルにひそむ動物たちの息遣い。それらすべては作者が実際に経験したものだからこそ、迫力を持って読む者の胸に迫ってくるのだ。たとえばキンタナが複数のインタビューで語っている、犬にまつわるエピソードがある。
ある日彼女は、崖の上で一匹の雌犬が横たわっているのを見た。最初は体を痙攣させているのかと思ったが、よく見ると犬自身が体を動かしているのではなく、蛆虫がたかって死骸を蝕んでいるのだということがわかった。上空ではコンドルが偵察するように飛び回っていた。二日後に同じ場所に行ってみると、犬はもう影も形もなかった。よく見ればわずかな骨と毛が残っているだけで、死骸が消え去るあまりの早さに彼女は衝撃を受けたという。本書を最後まで読まれた方なら、このエピソードが著者の心にいかに深い印象を残し、物語のなかに活かされたかがおわかりいただけると思う。だがこのような強烈な体験が小説という形をとるまでには時間がかかった。
もうひとつ、『雌犬』の着想につながったと思われるエピソードがある。
キンタナが崖の上の小屋で読んだ数多くの本のなかに、フェデリコ・ガルシア・ロルカの戯曲『イェルマ』があった。主人公の名前イェルマ(Yerma)は「不毛の」を意味する形容詞。偏見の強いスペインの田舎で、子どもができないことに苦しむ女性を悲劇的に描いた物語である。男性の視点から不妊を描いた同書を読んだとき、キンタナは女の視点から同じテーマを描いた本があれば面白いのに、と思った。だがそれを自分で書こうとは思ってもみず、やがてその本を読んだことすら忘れてしまった。思い出したのは、『雌犬』を書いたあとに類似性を指摘されたときだった。
ジャングルで暮らしていたとき不妊をテーマにしようと思わなかったのは、単に、そのころは母になることや母性に興味がなかったからだ。のちのインタビューでその理由を問われたキンタナは、当時の夫の子どもを産みたくはなかった、心の奥底で、この関係を続けてはいけないとわかっていたからだと思うと答えている。前夫は暴力的な男で、彼女がパソコンの前に座って執筆していると怒り出した。逃げると追いかけられ、自作の木造小屋の壁に押しつけられた。ある日首をつかまれて窒息しそうになり、ようやくこの男は自分にとっての敵だと理解して、ジャングルでの共同生活を終わらせようと決めた。
都市に帰って暮らしはじめたときには39歳、結婚生活の破綻に心は傷つき、もうだれかに愛されることもなければ、だれかを愛することもないだろうと決め込んでいた。そんなときに現れたのが、のちに夫となる10歳下の男性、エドゥアルド・オタロラだ。彼との間に思いがけず子どもができ、やがて流産したとき、彼女は初めて、この先妊娠することはないかもしれないという恐怖を感じた。そして母になること、母性について真剣に考え出し、女が〝乾く〟年齢を過ぎた43歳で出産した。
子育てはとてつもない激務であると同時に、創造性を解き放つトリガーでもあった。時間も体も心も、自分の全存在を育児に捧げる毎日のなかで、自由に使えるのは息子が昼寝している2時間だけだった。その貴重な2時間に、彼女は人間の暗い側面を映し出す物語を、慈しみを込めて携帯電話に打ち込んだ。こうして、本書『雌犬』が生まれた。
その内容もさることながら、本書はコロンビア人女性が太平洋岸を舞台に書いた物語という点でも注目されるべきだろう。コロンビアを代表する作家がガブリエル・ガルシア = マルケスであることは論を俟たないが、そのほかの、たとえば邦訳のある作家を見ても、フアン・ガブリエル・バスケス、ホルヘ・フランコなど男性ばかりが目につく。少なくとも国際的には、女性作家はあまり知られていなかったというのが実情だと言える。またカリブ海沿岸を舞台にした名作文学は多いが、コロンビアの太平洋岸は近年まで、物語の背景として焦点を当てられてこなかった。そういう意味では、本書が作者自身にとってエポックメイキング的な作品であったのと同時に、コロンビア文学界全体にとっても、新風を吹き込む存在であったことは確かだ。
キンタナは2021年に新作『深淵』(Los abismos)を発表。カリに住む、崩壊の危機を内包した一家の物語を8歳の女の子の一人称で綴った小説で、『雌犬』と同様、母性が重要なテーマになっている。本書が人間と犬に仮託した疑似母娘関係を母の視点から描いたものだとしたら、『深淵』は血のつながった母娘関係を娘の視点から描いた作品であり、この二作は対をなすものと言える。描かれる女性像は対照的で、ダマリスが子を産むことを切望しながら願いがかなえられずにいる一方、『深淵』は、子どもがほしいと思っていなかったのに産んでしまう母親が登場する。同作でキンタナはスペイン語圏で最も注目を集める文学賞のひとつ、アルファグアラ賞を受賞した。彼女がこのテーマをさらに突き詰めていくのか、それとも新しい地平を切り開くのか、いずれにせよこの先も目が離せない作家であることは間違いない。
*本稿は主に『エル・パイス』紙、『ラ・バングアルディア』紙、『ボカス』誌、BBCによる著者のインタビューを参考にした。
雌犬
ピラール・キンタナ
村岡直子 訳
定価:本体2,400円+税
ISBN978-4-336-07317-4